カラッポがいっぱいの世界

Greed makes the city shine brighter. 날 좋아하는 분들 내 사랑 먹어 東映映画と特撮

「チョムスキーとメディア マニュファクチャリング・コンセント」(1992)

ノーム・チョムスキー言語学界におけるアインシュタインと称され、コペルニクス的転回をもたらした最重要知識人といわれる。彼はユダヤ人でありながら、イスラエルの政策を批判するなど、かなりなリベラリストとしても知られる。(アナーキストな夢想家とも揶揄されたりする)この映画は、1992年製作なのでネットがこれほど広汎な地域性を獲得してしまった今いささかその言説には古びてしまっているところもあるが、チョムスキーの主張そのものは真正面から捉えるべきものであると私は思う。

ウィリアム・ランドルフ・ハーストの時代からメディアはつねに「権力者」の意向に沿ってきたのは明白な事実であり(「事実かどうかは重要でなく、チーフ(ウィリアム・ランドルフ・ハーストの呼び名)の意向にそっているかどうかが問題だった」とハースト系新聞社の編集長は述べている)、いまこの社会においても偏向報道というのは(少々気をつけてマスコミ報道を注視している人間にとっては)当たり前の話であるといえる。映画はチョムスキーの経歴をたどりながら、その講演内容、ならびにマスメディア出演時のコメント、論争相手とのやりとりなどを通し、チョムスキーの「姿勢」を明らかにしていく。映画はかなり長く二部構成となっている。

 

第一部はカンボジアで起きたクメールルージュとほぼ同時期に起きた東ティモールにおける同様の案件を取り上げ、チョムスキー曰く「米国政府がインドネシア政府へ武器支援ならびに暴動支援していたがゆえに、マスメディアが沈黙し東ティモールにおける虐殺は“なかったこと”になってしまった」経緯を考察し、マスメディア側の主張もまじえつつ、プロパガンダの実態を追求していく。

第二部は、チョムスキーがある歴史修正主義者の「立場」に対して擁護した事件を取り上げ、そのことに対する賛否、当事者である歴史修正学者の意見、また、市民出資型テレビといった多様化する市民参加型メディアを紹介しながら、その可能性に対するチョムスキーの「期待」などを論じている。計3時間あまり。正直途中寝てしまったところもあった。

「マニュファクチャリング・コンセント」とは「偽造の合意」という意味。「合意」を「偽造」しているのは誰か。チョムスキーは、「権力者」が「知識人」には思想注入し、「大衆」にはプロパガンダによって事実を隠蔽、世論を自分達にとって都合の良い方向へ動かそうとしている、という。実際のところ、チョムスキーの述べるような二項対立構造でプロパガンダなり、思想注入が行われているとしたらまだマシかもしれないと私は思う。私が問題だと思っているのは明確な意思表示もなく「空気」で決定されていくことだ。映画の中でニューヨークタイムズの編集長が「忙しくてホワイトハウスの誰かからなにかいわれる前にはもう記事になっている」というが、おそらくそれはまさにそのとおりなんだろう。だが考えてみれば、総理大臣が積極的にマスコミと会食し、NHKの解説委員が露骨に総理擁護のコメントをだすことを思えば、チョムスキーの指摘はむしろ現代ニッポンにそのまま当てはまってしまうと言える。そしてその「偽造された合意」のなかで編集長は確固たる信念に基づいて「検閲」を行っているのではなく、それよりはむしろ、その上の局長の許可が下りないことが分かっており、そしてその局長は部長の、部長は支局長の、支局長は支社長の、支社長は取締役の、取締役は社主の、そして社主はだれへの気兼ねから許可しないのではないだろうか? そこには明確な禁忌はなく、いわゆる「空気を読んだ」「大人の判断」が支配しているに過ぎない。問題はその「空気を読んだ」「大人の判断」にあるのだ。世の中の世論を動かしているのはこの行為--長いものには巻かれろ式の--であると私は思う。

 

私は彼のように大衆に対して期待できない(彼はアナルコ・サンディカリズムの信奉者というのもあるのだろうが)。大衆を啓蒙すべきところにあると位置づけながら大衆と寄り添おうとするのはある種の矛盾をどうしても生じさせてしまうのではないだろうか。そういう意味で「大衆」というコマの奪い合いにも見えてしまう。果たして「大衆」が本当に「真実」を知るための努力をすべきかまたしたいのか、私は疑問である。それよりもただ与えられた情報を信じていたほうがラクだと思うヒトビトで世論は形成されているのではないだろうか。つまり「合意」を「偽造」しているのは他ならない「大衆」の「意思」だと私は思っている。(であるがゆえに、私は「大衆」になにも期待していないわけだが)

 

おそらくチョムスキーもそのことは熟知しているのだろう。彼が期待する市民参加型メディアなんてもうこのネットの隆盛を見れば衰退は火を見るより明らかだろうし、それよりもこの一人一人が情報を発信するという「誰しもが15秒だけ有名人になれる」社会においては、精査するべき情報であふれかえり、ただ人はその「仕事量」に対して、途方に暮れるだけではないだろうか。勝ち組負け組理論で二分化するならば、今後は情報をどれだけ分析・精査できるかが、その分かれ目になってくることは想像に難くない。皮肉なことに「大衆」に「情報」が行き渡った結果、能力差は拡大する一方だ。「格差社会」というのなら、これほど「過酷な」格差が出現することを真にさすべきではないだろうか。残念ながらこの映画は上記のように1992年製作のため、現在のネット環境その他については触れられていない。だが、だからといって、この高度情報化社会において、昔ながらの陰謀説じみたチョムスキーの主張は黙殺されるべきものなのだろうか。私は、ネット上にあふれかえるプロパガンダと(自分こそは情報通であると思い込んでいる)その信奉者を目の当たりにするにつけ、今こそチョムスキーの言う「プロパガンダを疑え」を実感するべきだ、と思う。

チョムスキーはその主張の普遍性だけではなく、その学者としての「姿勢」に私は共感する。彼はユダヤ人でありながら、ホロコースト主義者を擁護したせいで非難される。チョムスキーは「ホロコーストがあったとかなかったとか口にする時点で人間性の欠如を表している」と書いた自身の論文を引き合いに出した上で、「それでも彼の“発言する権利”は守られるべきだ」と断言する。「私は君の意見に反対だ。しかし君がその意見を発表しようとする自由は死んでも擁護しよう。」という例のヴォルテールの言葉は頻繁に引用されるし、引き合いに出す人は多い。だが、果たして彼らのうちでそれを実行できる人間がどれほどいるのだろうか。もし仮に西尾幹二が韓国の政治団体から発言禁止および出版禁止の仮処分申請を裁判所に申し立てられたとして、本多勝一は彼を擁護するだろうか?そういったチョムスキーの「誠実さ」や彼を突き動かす動機(「鏡の前の自分を直視できるかどうかなんだよ」)に青臭いだの夢想家だのといった言質を浴びせるのはたやすい。だが、右左といった思想性を超えたところで彼の行動や言動が普遍性を獲得しているのもまた事実なのだ。「誠実」さゆえ、彼は「大衆」の中にある情報精査分析力に期待し、呼び覚ますため「啓蒙」しようと、否定されようが愚弄されようが売られた喧嘩は買い続け、講演をし、大衆のために寄り添おうとしているんだと思う。そういう意味で彼はドン・キホーテ的な人物であるような気がする。(日本の某唯一ネ申と共通するものがある)

チョムスキーの努力はある種の観点からすれば徒労としか言いようがなかったりするが、私はこの映画をみてあの言葉を思い出すのだ。「でもやるんだよ」

「アルフィー」(1966)人妻をオトしたきゃ笑わせろ

 

アルフィー」1966年英作品。マイケル・ケイン主演。

60年代のポップで明るいスウィンギングロンドンを舞台に、アルフィーマイケル・ケイン)という口八丁手八丁の女ったらしが、せっせとガールハント(死語だがこの言葉がよく似合う)に励む日常を彼の独白体で描くコメディ…かと思いきや、どうしてどうして。そんな簡単にオトしてはくれないのがこの映画のいいところ。

アルフィーは、曜日ごとに違う女とデート+セックスにせっせと励むしがないロールスロイスの運転手。女とのデートにちゃっかり仕事用の車を使うような男である。キープと決めていた女が妊娠し、結婚しないまま彼女の家に通い続けるが、自分の息子への愛情を噛みしめ始めた頃、彼女は誠実に愛してくれる男と結婚してしまう。哀しみに暮れながらも結核に冒されていたことがわかったアルフィーは療養もかねて郊外のサナトリウムへ。看護婦とヨロシクやりながらも、同室の男の妻へ手を出すことも忘れない。本復した彼はまたロンドンへ。観光写真撮りの仕事をしていたとき、金持ちの未亡人ルビー(シェリー・ウィンタースがおっかさん的風貌で登場)と出会う。平行して田舎出の少女アニーをひっかけ同棲する。だが、アニーがまだ昔の男を忘れてないと知るや追い出してしまい、そして同室だった男の妻はアルフィーの子を妊娠してしまう。最後、安心を求めて結婚しようと思ったルビーはすでに若い男が。一人、夜の濡れた歩道を歩くアルフィー

のっけからテンポのよい編集と有名なソニー・ロリンズのテーマが流れ、マイケル・ケインのスケコマシ顔とともに期待度も高まる。「俺の名前は(後ろで女性が彼の名を呼ぶ)そうアルフィー」なんて自己紹介したりして、まさにスウィンギングロンドンの才気煥発ぶりが楽しい。計算され尽くした編集を見ていると、描きたいことを全部載せるのではなく、あえてちょっと引くところで趣旨を伝えるという基本中の基本を実感させられた。マイケル・ケインは劇中ほとんど表情を変えない。ちょっと口の端をあげる程度でそれがまた軽佻浮薄ぶりを印象づける結果となっていて実にうまい。また、アルフィーの女ったらしも見事だが、もっと凄いのはそのストライクゾーンの広さ。お相手の女性陣には、どうひいき目に見てもふるいつきたいような美女は一人も出てこない。ほとんどが労働者階級の女工哀史といった風情の女や小汚い無職少女である(もしくは金持ちでもデブおばさんとか)。アルフィー自身も金持ちでもなんでもなくただのその日暮らしの労働者に近い身分設定にしてあるのも、製作者側がこの話をファルスではなく皮肉なサタイアにしたいという意図をそれとなくわからせるかのようだ。人物設定もそうだが、脚本もうまい。「人妻をオトしたきゃ笑わせろ、独身女はただ笑っているだけだど、人妻が笑ったらオトしたも同然。それで旦那を紹介したいっていいだしてきたら、終わりにしろ」「中年女はいい。愛してるなんて聞かないからだ」「見舞いに来た客は、だいぶよさそうだねなんて言って花を渡した5分後にはもう帰りたがっている。そして病室を出てドアを閉めた途端に、もうあいつはながくないな、保険証書を確かめておけ、なんていうんだ。」等々、箴言の連続ナリ。こんなふうにほぼ間断なくしゃべり続け、遠慮外聞もなくやりまくるマイケル・ケインだが、彼があまりにも魅力的なのでしょうがないな、と女の扱いっぷりの酷さにも片目を瞑りたくなってしまう。(とはいいつつもこんな男は恋人ましては友達にも持ちたくない。話のタネ要員の知人としてなら別だが)だがそれも途中まで。

同病室の男の妻が絡んできてから、映画は一気に重量感を増す。重量感は増すがそれで停滞しないのがこの作品の真骨頂で、疾走感はキープしつつそのまま一気にラストまでもっていかれてしまう。人生は、軽く呑んで生きているような男に対してそれ相応の後始末を要求する。我が日本にもアルフィーのようなお調子者(無責任男シリーズなど)がいることはいるが、その映画での植木等はいつでも純情で仕事は適当だが団玲子(をはじめとするおネエちゃんトリオの別な誰かでもいいが)だけをひたすら思って高度経済成長期を邁進する。このあたりのキャラクター造形の差に、日英というよりも見せたいと想定している観客の共感の有無を見るようで実に興味深い。(無責任男が社会に対して適当であるとするならば、アルフィーは自分の人生に対して適当である。)しまったアルフィーの話だった。

劇中何度か「これは金持ち用と店員が言ってたぜ」と階級差を意識させるようなせりふがでてくる。だがアルフィーはいわゆる「怒れる若者たち」とは違い、走るわけでもなく破壊するわけでもなく、ただ無為にその日を享楽的に送るだけだ。階級差を縮めようとも、なりあがろうともしない。そこにある種の潔さと諦観を感じるがゆえに、私はあまり彼のことを否定できないのかもしれない。虚無でありニヒリストであるアルフィー。絶望すると人はかえって明るくなるものだとサガンはいったが、アルフィーは最後まで(やや疲労の色を濃くしながらも)明るい。絶望をその大きな瞳に湛え、戸惑ったような明るさのアルフィーと、骨太のロリンズによるテーマが和音のように協調したからこそ、この映画は傑作足りえているのだと思う。殿方にこそ見てほしい。深淵をのぞいたとき、向こう側からのぞき返すのは誰なのか、確かめるために。

ラスト、アルフィーには雌犬を追い掛け回してばかりの雄犬がそっと寄り添う。一人と一匹はそのまま闇の街へ消える。おもしろうてやがてかなしき。アルフィーよ(そして男たちよ)どこへ行く。

エロ表現と子育てとジェンダーバイアス

太田先生のこのtwが話題になっているようだ。

 

元々はこちらのtwである。

私も最初この画像を見た時に「これはアウトだろ」と思ったのだけど、他の方のtwを読むと露出が多いからアウトだと思っていて、この程度の表現に慣れさせろだのと少しズレてないかと感じる意見も見受けられた。
露出が多いからと問題視している方もいるかもしれないが、私はむしろ「嫌がっている、怒りの表情を浮かべているのに衣服を剥ぎ取られて全裸に近い状態になっている」ことに驚いた。こんなのアリにするのかよ、と。

嫌がる女性の衣服を剥ぎ取ることは刑法犯であるが、作者はそれをどこまで意識していたのだろうか。また露出が多い服装であっても、なぜ嫌がる表情をチョイスしたのだろうか。着衣で笑顔の表現になぜしなかったのだろうか。即座にそんなことが頭に浮かんだ。

「いやこれはたまたま偶然風に煽られて着衣が取れただけの、いわばラッキースケベというやつですよ。だから主人公には罪がないんです」という人もいるだろう。だがこういうシーンをわざわざ選ぶ、しかも読者投票のランキングで、というのが問題があると思った。先ほども書いたが、別に着衣が剥ぎ取られた姿を選ぶ必然性を感じない。これでは、読者は、嫌がっている女性が裸になっている姿を盗視しているのと一緒で、作者によっていわば共犯関係にされている。これが少年誌でやることなのだろうか、と思う。

男児はああいうエロで大人になる」なんてことを書いてた人もいたが、母親の立場としてみれば、そんなエロで大きくなったらたまらない。何かのアクシデントで女性の衣服が取られて全裸に近い状態になってしまったのを喜ぶなんて、盗撮的思考を育てて欲しくない。

そんなことを考えながら、私は以前から抱えている問題について思わずにはいられなかった。

私の子供は今、小学校に通っているが、先日、モアナを見に行こうと誘ったところ「いやだよ、あんな女向けの映画なんて」と言い出した。前年、ズートピアを見に行った際にはそんなこと一言も言わなかったのに。なぜ女向けと思うかと重ねて尋ねると「女性が主人公だから」という返答だった。女性が主人公の作品は女向けだから見ない。私は大変驚いたし、同時にとうとうジェンダーバイアスと向き合う時が来たのか……とも思った。

子供を産んで何より実感させられたのは、世の中にどれほど多くのジェンダーバイアスが潜んでいるのか、ということだった。「男の子だから泣くんじゃありません」おままごと遊びをすれば「男の子なのにあんな遊びをしていいの?」等々。私自身、息子の発語が遅くて気を揉んでいた時に「男の子は遅い場合が多い」という言葉に救われたりもした。しかし、それはあくまでも成長過程の差の話。年齢が上がるに従ってジェンダーバイアス的な内容を投げかけられることが増えていく。例えばテレビを見れば、女の子は守りと可愛さ担当、男の子は戦うパターンの、なんと多いことか。そんなこともあって、私はできるだけ息子にはカートゥーンネットワークを見せていた。カートゥーンネットワークジェンダー規範からかなり自由な作品が多く(人気番組のスティーブンユニバースでは戦うのは女性で、主人公の男子スティーブンは守りや癒しを担当している。また女性同士の恋愛も描かれている)引っかかる表現に出くわすことなく見せることができた。そうして息子はジェンダーバイアスはさほどないだろうと自負していたのに。

こんな風に気をつけていても、いつのまにかジェンダーバイアスが刷り込まれてくるので、都度修正しているのだが、なかなか追いつかない。かといって子供をガチガチに管理するわけにもいかない。社会が子供を育てる、という負の側面に直面している。

先のtwに関しての意見で「子供の性教育的なところまで社会に求められても困る、家庭でやってほしい」というのも目にした。だが、こんな風に社会からの刷り込みに抗っていると、社会の責任をネグって「それは家庭でやれ」の一点張りなのは、さすがに社会が子供を育てる意識が欠落してると言わざるを得ないのではないかという思いはどうしても湧き上がってくる。社会や学校でできることに限界があるように、家庭においても限界はある。それらは相互補完しあって、次世代の育成というテーマに向かうべきだと思うのだが、現状はこんな風に親の自己責任で押し通されてしまうことが多い。社会がこんな風だと私の努力など蟷螂の斧ではあるが、できるだけ、やるだけのことはやっておきたい。

それでも女児の親御さんに比べたら、なんてことことはないという気持ちでいる。女児は、ジェンダーバイアスに加えてごく幼い頃から(オムツ替えすらも)性的消費の対象となっている。そして時には自分の夫すらも疑わなければならない時もあるだろう。心中察するにあまりある。
私にできることといえば、せめて自分の子だけはそんなジェンダーバイアスゴリゴリの馬鹿男になって欲しくないし、そうならないように育てるということぐらいだ。しかしそうやって育てたらもしかして「ノリが悪い」だのと同調圧力の元でいじめにあうかもしれない、などと考えると暗澹たる気持ちになる。息子が大きくなる頃には「嫌がる女性を無理やり……って人権侵害でしょ」「ノーがイエスの表現だって?馬鹿じゃないの?」と言えるのが当たり前の世の中になってほしい。性暴力を「エロいもの」として男性が消費するのを、古い昭和的な前近代的なものとなっている世界であってほしい。そのために、私はできるだけ自分の子供には、性暴力はエロではない、と教えていきたい。拒否している、嫌がっている相手に無理やり性的な行為を強いてはいけないし、予測不可能な出来事で肌が露出してしまい、恥ずかしがっている人の姿を見て性欲を解消したり喜んではいけない。拒否は拒否であって、イエスではないと。

女性の主体を剥奪し、性欲の対象としてのみ扱い、消費することに慣れてしまうと、人として扱うことが難しくなってしまうのではないか。小さい頃からそんな価値観を刷り込まれていたら、セクハラをお色気シーンと理解して、娯楽として楽しむ、なんて真似ができてしまうのだろう。拒否をイコールに読み替えられるのも女性としての主体性などハナから認めないからこそできることだ。仮に、セクハラや性暴力を娯楽として、エロとして消費できるとするならば、それがファンタジーであり、現実には到底ありえないし、あってはいけないことだということがコンセンサスとして確立・徹底されている社会だけであって、女性側がいくら拒否を訴えても男性側がそれを拒否と受け取らなければ強姦にならないという判例のある国では無理だろう。拒否は拒否であるというコンセンサスが確立するのは、一体いつなのか。

今回はこちらの作品が槍玉に上がったが、前々から表現作品において「セクハラ」が気軽に描写されているのが気になってしょうがなかった。犯罪描写だったら、劇中で報いを受けるのがセオリーだと思うのだがことセクハラだと性暴力にもかかわらずサービスシーンとして処理されてしまう。現在差別的な表現はそれを否定する表現とセットになってないと糾弾されるわけだが、女性へのセクハラ・性暴力表現(ラッキースケベ含む)特に何も罰を受けずそのままになっていたり(あるいは女性はいやーん等の軽い拒否で終わるとか)、必然性なくただ消費のために存在していたりする。編集者はこれがアフリカ系アメリカ人に対して多人種・民族がニガーと言ってそのまま肯定的に終わらせるような表現であっても掲載したのだろうか。でも女性は嫌がっていても衣服を剥ぎ取ってもいいし、怒りの表情で裸にされているのを掲載してもいい。そしてこれらの性暴力表現を「お色気」と言って消費してもいい。その「区分け」は一体どこからくるのか。

ポリティカルコレクトネスを考慮した作品が昨今アメリカその他から発信されるようになっている。アメコミではミズマーベルはイスラム系女子になったし、キャプテンアメリカもアフリカ系男性になったりした。今度公開される映画パワーレンジャーにはコーカソイド、アフリカ系、アジア系、LGBTもメンバーに含まれている。(とはいえリーダーがコーカソイド男性については議論の余地があるだろう)ポリコレ棒と言って叩かれたり嗤われたり揶揄されたりしているようだが、ある方によると、ポリティカルコレクトネスを考慮するようになったアメコミはコミックの純粋な売り上げだけで2015年の時点で10億ドルを超えていて、しかもデジタルでなく紙媒体で9億ドルを超えるように大盛況となったそうだ。ポリコレで顧客が離れるどころかより広範な支持を獲得しているように思える。日本のコミック市場は5000億円程度だそうで、かつ、先細りしているのはよく知られた話だ。ポリティカルコレクトネスは表現の間口を狭めるどころか、むしろ間口を広げ、新たな顧客を呼び込む作用があるように思えてならない。

複数の出版関係者から聞く話を総合すると、様々な差別表現に対して業界のコンセンサスなど無いに等しいとしか私には思えない。現実問題として、それらは個々の編集者の良識や教養、経験や知識によってかろうじてストップがかけられているのが実態なのではないか。だからこそ差別表現や性暴力表現があれば、掲載媒体の編集部へ抗議の電話をしていくことが大事であると私は考える。抗議によって何が良くて何が悪いのか、編集者側も理解していくとしたら、消費者側も積極的に問題表現について訴えていけば、「誰のことも考慮した表現」の実現へと繋がっていくように思える。

一見すると「誰のことも考慮した表現」は多方面に気を配ることから「息苦しく自由度の低い」ものに見えるかもしれない。であるならば、住み分けをすることも考えるべきだ。レイティングとゾーニングを徹底し、低年齢向けにはポリティカルコレクトネスを考慮した作品を掲載し、他方でなんでもありな表現を掲載できる媒体を用意する。誰の目にもつきやすい、手に入れやすい媒体は「考慮した媒体」として、性暴力表現を肯定的に扱うことや、差別表現を避ける。誰かの足を踏まないように気をつけること、「息苦しい表現」を選択していくのが必要な時期に入っているのではないか、と私は思う。ちなみに徹底したゾーニングとレイティングでしか業界が生き残る方法はない、というのはエロ本ライターをしていた夫の持論でもある。

自分の足を踏ませないし、誰かの足も踏まないようにする。それがそんなに難しいことだとは私には思えないのだけど。

 

 

「怪獣使いと少年」を息子と見た日

帰ってきたウルトラマン第33話「怪獣使いと少年」を息子と見た。

 

話の内容は、川べりの廃屋に住みながら、地面を掘り返している少年がいる。その少年が宇宙人だと言って、中学生?たちがからかいに来るが、不思議な超能力でやり返されたため、より酷い虐待をされる。そこを郷隊員が駆けつけ、救うが、少年は宇宙人であるという噂が広まり、街へ買い出しに行っても宇宙人は出て行けと追い返されるようになる。実は少年には匿っている宇宙人「メイツ星人」がおり、地球の酷い環境のせいで死にかけている。少年はメイツ星人を「おじさん」と慕っている。郷隊員にメイツ星人は、川べりには自分が乗ってきた宇宙船が埋まっていて、少年は自分をメイツ星に返すために、宇宙船を掘り出そうと毎日穴を掘っているのだ、という。郷隊員が少年と一緒に穴を掘っていると、「宇宙人を殺せー」と警官を先頭に街の人間が武器を持って押しかけてくる。少年が殺されそうになると、メイツ星人がやってきて、自分が宇宙人だ、と告げる。その時、警官に撃たれ、メイツ星人は死ぬ。メイツ星人が死ぬとともに、彼によって封印されていた怪獣ムルチが蘇り、街を襲う。郷隊員はこんな結果を招いたのは彼ら自身だと思いながらも、ウルトラマンに変身し、街を救う。少年は「おじさんは死んでない、メイツ星に帰ったんだよ。だから自分もメイツ星に行くんだ」と言ってまた穴を掘り出す。そこで終わる。

 

息子がウルトラマンジャックが見たい、とせがむので、BDレコーダーに唯一残っているのは「怪獣使いと少年」しかないよ、と告げるとそれでもいいからぜひ見たいという。そして見せたら、大変に激烈な様子に、こちらが戸惑ってしまった。

最初こそ、あれがムルチだよー、と怪獣図鑑を手繰りながら話したりする余裕があったのだが、少年が穴に埋められて泥水をかけられるシーンで、あんなバカやろうどもは警察につかまるしかない!と憤り、少年が過酷な差別をうけるシーンに「なんであんなことをするの!あの人たちはみんな頭がどうかしてるよ!」と自分の頭を指差しながら興奮して怒り涙目になり、少年がとぼとぼと線路を歩くシーンでは「危ないよ!」と心配し、自警団が押し寄せるシーンでは「もう見たくない!」と顔を覆った。メイツ星人が殺されるシーンではおかしい!おかしい!悪いことしてないのに!と泣いて怒っていた。物語を見て泣く息子は初めてみた。ムルチが街を襲う時は、それを「自業自得」とする郷隊員に共感していた。それでもウルトラマンがムルチと戦うシーンではウルトラマンがんばれー!と声をあげた。見終わって、二人であれこれと話し合った。そんなことをするのも、初めてだった。

実はこの作品を見るのは二度目で、二年ぐらい前に見た時は、ひどいねーとは言いつつもわりと淡々と見終わったのだが、ただ、以後しばらく何度となく「なんで警官はメイツ星人を撃ったのか」と聞いてきた。その時の記憶は無くなってたようで、前にも見たことがあるよ、というと、覚えてないよー、と言っていた。今回、その話をするとやはり同じように「なぜ警察官はメイツ星人を撃ったのか」と聞くので、それはずっと考えていこうね、というと、「答えを教えてよー」と言いつつも、少し真面目な顔をして「そうだね」と言った。本気かどうかわからないけれど、おそらくは息子の中に何かは残ったと思う。

正直、ここまで激しい反応をするとは思っておらず、完全に想定外だったため、見せたことを後悔した。早かったかな、とか、難しかったかな、とか見せないほうがよかったかな、とか。なにかトラウマでも残りはしないか、という心配も、実はしている。

でも制作陣はこういう反応こそ望んだ、というのは言い過ぎだけど、こういうふうに子供達が考えてほしい、なにかを得てほしい、と思ってあの作品を作ったのだろう。45年の時を超えて、また新しい子供達に衝撃を与え続ける。作品は生きてるんだな、とつくづく思う。制作スタッフには45年後でも衝撃と怒りを共有する子供がいるんですよ、と言いたい。あなたたちの思いを受け止めようとする子供がここにいること、そして、そういう作品を世に送り出してくれたことにありがとう、と。

最近、息子は「命の循環」というか、そういう思想?についてしきりに話していて、誰かが死んでもその命は別の人に入ってまた生きるんだ、と思っているようだ。ママが死んでも自分の中に入って一緒に生きると。こういう年の子でもそういうふうなことを考えるんだなーと思ってはいたが、今日も寝る前に「メイツ星人のおじさんのいのちはあの男の子の中に入ってそれで一緒にメイツ星に帰ろうとしてるんだね」「あいつは自分の居場所をみつけたんじゃない?…○○くん(自分)もいつか自分の居場所が見つかるといいな」と呟いていた。

 

息子がこれから生きていこうとする社会では、今もあのような苛烈な差別が実は現存していることを、私は知っている。息子は、友達を励まして、何かできるようになると自分のことのように喜ぶような子で、今日も、あるファーストフードに寄った際に、店内に怪我をした人がいるのを見かけると、手を合わせて「あの人の怪我が良くなりますように…神様お願いします」というようなところがある。人好きで、のんきに子供らしく(というのも変な話だが)育っているけれども、何かの時に、差別に直面することがあるとは思う。その時に、息子はどんな対応をするのだろうか。もしかしたら、あの警官のように、拳銃を向ける側になっているかもしれない。

 

しかし、それでも。

 

私は、息子が「怪獣使いと少年」をみて泣いて怒るような子になってよかったなあ、と思った。

デッドプールを見た夜に

デッドプールを見に行った。 


詳細な感想はまた別の機会とするが、愛と血と肉にまみれた近年珍しいくらいのラブストーリーだった。周囲はカップルだらけだった。笑っているのは私だけだった。 

外に出ると、もはや夜だった。湿度は高いが空気が冷えているのでそこまで不快ではなかった。アジア人たちが記念撮影に励む姿を縫うように歩いた。 

新宿歌舞伎町の入り口には赤いフェラーリが駐車していて、その上にはライトを揺らすマック赤坂が立っていた。80年代のロックコンサートにおけるオーディエンスのように、ゆっくりと左右に揺れていた。傍らにはプラスチックで固めたような笑顔の警備員だか警察官だか、制服を着た男性がいた。しばらく見てると、その男性がマック赤坂に次はどこそこに行くから移動しろという指示を出していた。彼は何者なのか、なぜあんな笑顔だったのか、わからないままだった。シャツをズボンの中に入れたリュックを背負った小太りの男性が熱心に彼を撮影した。政治を面白がる季節はまだ続いているようだった。 

この街は500円のランチと10万のランチ、300円の快楽と身体と身代も溶かしきる愉楽が同居するのだった。客引きが盛んに声を掛ける姿のBGMとして「客引きは迷うあなたを教えるふりをして~」というアナウンスが流れていった。誰もが目を落とし、客引きと連れと話す人以外は全員が歩きスマホをしていた。 

駅前に差し掛かるとしゃがれた声で「AKBは皆さんご存知ですよね、指原さんがこの前二連覇しました、私は彼女とはテレビで共演したんですよ」と語りかけているのが聞こえた。ピンク色の衣装を身につけて、街宣車の上でマイクを持つ片山さつきが見えた。「私にも二連覇させてください」とまとめていた。手足が丸出しの赤い衣装を身につけた運動員がハウリングさせながら、ご静聴ありがとうございましたー!と声を張り上げた。私のそばを通りすぎた若い女性が顔を思いっきりしかめていた。壇上から降りてきた片山さつきは、道行く人に向かって、ミュージカルスターのカーテンコールばりに思いっきり手を差し伸べた。中年男性が駆け寄って握手を求めた。横目で見ながら、駅に着いた。 

金曜日でもないのに、たくさんの人がごった返す。新宿駅の日常風景だ。背の高い若い男と彼の半分ぐらいの身長の、これまた若い女の子が熱心に抱き合っている。彼の腹に顔を埋めるようにして恍惚している女の子と、彼女の背を撫でながら見えないように違う女の画像をスマホに映し出して眺める男と、それもまた、よくある光景なのだろう。 

自宅近くの駅に着く。ガード下には「自民党」と書かれた幟が立てかけられていた。明るくカラッとしたバンドの生演奏が流れていた。候補者だろうか、スーツ姿の男性が近くに陣取り、顎に手を当てて頷きながら演奏の様子を見つめている。梅雨の晴れ間の湿った夜に、何かのポピュラーソングをジャズ風に軽くアレンジした演奏は、実に口当たりがよく、駅から吐き出される人も少しほっとしたような表情を浮かべていた。これから握手会や演説が始まるのかもしれない。 

ふと、私は思った。地獄への道は、明るくからりとした演奏と、それにほぐされて笑みを漏らす人々で埋まっているのかもしれないと。こんな風に。

「レギュラーSHOW」「おかしなガムボール」……海外製作アニメにみるPC事情的あれこれ。

「レギュラーSHOWこりない二人」というアニメが抜群に面白い。
80年代に郷愁を感じる人間なら、よりたまらない作品なんじゃないか。

「レギュラーSHOWこりない二人」なまけもので公園の管理の仕事をしてる鳥のモルデカイとアライグマのリグビーが、いかにして失敗をごまかそうか、仕事をサボろうか、と悪戦苦闘する日常を描く15分アニメ。基本的なストーリー展開は、モルデカイ&リグビーの主人公コンビがなにかをやらかす(彼らの上司や仕事仲間がやらかすこともアリ)→その失敗をどうにかしてごまかそうと行動にでる→宇宙の神秘が!、と書いているとなんのことだがわからないと思うが、本当にこういう展開なので、ありのままみたままを語るとこうなります。例えばカートを壊してしまったが無料修理期間が明日までなので急いで代理店まで出かけるも、主人公コンビが途中寄り道して朝までゲーセンしてしまい、間に合わせるためにアメリカいち危険な道路(道が荒れてるとかいうレベルじゃなく、断崖絶壁やなぞの生物に襲われたりする)をいく羽目になる……といった具合。

ここに、80年代的エッセンス(ゲームが明らかにファミコンで荒いドット絵だったり、襟足ながいリーゼント短パンや、テレビはもちろんブラウン管だし、音楽はカセットテープとラジカセだろ)をぶちまけて、アクションとパロディを加え、ほろりとさせ、ときにブラックな、そして人生の苦味を感じさせる結末で〆る。
基本的にバカ男子(ゾンビ映画?もちろんサイコー!)の話なのだが、その手の話にありがちなホモソっぽい展開も特になく、ナンパして女の子の電話番号をゲットしよう!という賭けをやったときには、女はいい車を見たらよってくるだろ、というような主人公たちの思い込みは、車がよくたってあんたらの車になんか乗らないよ、という展開にしていて、PC的なひっかかりがないようにしている。いろいろありながらも結局は好きな女の子からしか電話番号は教えてもらえない、というオチにしていたり、女なんてこんなもんだろという偏見を必ず打ち砕くような話になっていて、ストレスがない。
普段はなまけててロクデナシの主人公コンビが不正や友人の危機に立ち上がり、いつもはいがみあってる公園管理仕事仲間たちが一致団結して敵に立ち向かい、勝利を収める。友情!努力!勝利!バイオレンス!アクション!パロディ!笑い!感動!が15分という短い時間の中にギューギューに詰まっているんだけど、不思議と押し込んでる感がしないのは、おそらく、スカスカの背景とヘタウマ調のイラストレーションのおかげもあると思う。エッジのたったキャラに頼らず、ストーリーでしっかり見せるというのは素晴らしい。子供は素直に笑って、親は80年代小ネタにくすぐられ、結果的にで親子で楽しめる内容になっている。私も子供に付き合ってみていたらいつの間にか爆笑させられていたクチでございます。

それにしても、こういう「PC的にオッケーなアニメ」を子供に、という流れは海外展開する際の必須となりつつあるのかな。日本だと女児向け(といいつつ大きなお友達も網羅してるような)アニメだとひっかかるところとかあったりするけど、カートゥーンネットワークで放映されている海外アニメはそういうのを感じたことが(あまりというか記憶にある限り)ない。例えば“カートゥーンネットワークトムとジェリーを超えた人気(番宣より)”を誇る「おかしなガムボール」は、『「天才バカボン」を21世紀のアメリカでアニメ化するとこうなる』というような内容で、主人公ガムボールのパパは働かず文字通り「遊んで」暮らし(父親が仕事をすると宇宙に巨大なゆがみが生じるという設定つき)、ママが働いて一家を支えている。妹は天才児で幼児だけど飛び級?してガムボールと同じ学校に通っている、なんてまさに「アメリカ版天才バカボン」だと思うんだけど(あとはペットの金魚から自力で進化して足を生やした「ダーウィン」というのもいる。)パパや近所の人やクラスメートやあるいはガムボール自身が引き起こすおかしな出来事に巻き込まれ、巻き込み、ドタバタというかスラップスティックコメディが繰り広げられる。爆発的な「はちゃめちゃさ」は「アドベンチャータイム」が教訓話に思える程だ。ガムボールとママは青い猫で、パパと妹はウサギで、自立進化したダーウィンは養子のような状況でこのあたりの家族設定もたぶんにアメリカの現在を反映しているように思えるし、PC的な考慮を感じる。今日見た話は「妹が過度にストレスを溜め込んでいると診断され解決策として『正しい家族のあり方』、父親は仕事をし母親は家の中にいてガムボールたちは清く正しい少年像を求められる」というものだった。当然のごとくそれは破綻し、最後はみんながやりたいように家の中をめちゃくちゃにして終わる。ジェンダーがいかに不自由なものかを訴えていて痛快だった。)
ガムボールのパパとママの関係は、「クズ男を養ってるバカ女ww」的にアレな保守派が草はやしそうだけど、二人とも自己を卑下しないし、お互いを責めないし、ありのままで仲良く暮らしている。(パパが仕事して宇宙がおかしくなりそうなとき、賛成する子供たちに対してママは全力で止めにかかっているくらい)関係も対等だし、男だ女だ式にジェンダーを喧伝しないアニメがアメリカでは主流 となりつつあるのだろうか。

これが日本だと「はなかっぱ」なんかは見ていて時々ひっかかるところがある。それこそ「家でご飯作って待っていてくれるおかあさん、男としてのあり方を教えてくれるおじいさん」みたいなジェンダー観が垣間見えてしまうんだよなあ。こう書くと「家でおかあさんがご飯作って待っていてくれるのは当たり前だろ、感謝して何が悪い」みたいなご意見をいただくかもしれませんが、そーいうのをアプリオリに捉えるのがどうなのよ?って話なので、あしからずごりょうしょうください。

ちなみにカートゥーンネットワークで一番イカレてるのは(今まで見た中で断言するならば)圧倒的に「おはよー!アンクルグランパ」だと思う。ビートルズの映画「イエロー・サブマリン」を連想させるような色使いとサイケデリックさで、見ていて不安になるレベル。なんかキメてみるアニメだよなあと思いつつも、幼児って基本的になんかがキマってないとできないことばっかりやってるので、ちょうどいいのかもしんない。

銀バス哀歌

私はバスに乗っていた。

車内は閑散としている。前の座席におばあがふたり、なにかを話し込んでいた。窓の外にはサトウキビ畑がひろがっている。時折ゆれる。心地よさにまどろんでいた。

日差しは高い。うっすらときいている程度のクーラーでも十分ありがたいほどの気温で、ひっきりなしに汗が染み出す。(でも不快じゃない)道を歩く人もいない。こんなときはどこへもいかずに、家で涼むに、限る。真上から垂直に日が照る。ほとんど理不尽な暴力に近い。車体がきしむ。おばあはまだしきりに話し続けている。でもよく聞こえない。サトウキビが風に揺れている。地平線の向こうに白い雲。青い空。おあつらえむき過ぎてわびしい。

うつらうつらしていると、母の作った色の濃いうまくないカレーやら海に向かってかけていく背中だとか脈絡なく浮かんできた。やわらかい皮膚の感触やそのあたたかさ、静かな顔立ちも。いくから、と私がいって、目で合図した。それが最後だった。なにか重要なことを聞き忘れた気がする。もう少し話しておけばよかった。それだけが気がかりだ。いいたいことがあったような。

クラクションが鳴らされて目が覚めた。バス停のところにおじいが立っている。運転手は手を振っておじいを追い払った。バスは走り去る。バス停に立ち尽くしたまま白く濁った目でこちらをみていた。私は彼を見つめた。土ぼこりに目を落としたままの彼の姿を。

水牛車に乗って海を渡った。あの御者のおじいの目を思い出す。白く濁りかけた目で三線をひき、安里屋ユンタを歌っていた。彼はいない。私だけが乗っていた。安里屋クヤマ。悲劇の女。殉じた女。目差主や我ば否よあたり親やくりや嫌よ。逃げて逃げて草臥れた体から木が生えて役人はそれで船を作り島に渡るのだ。その話を彼にすると「結局クヤマは役人のものになったんだね」とつぶやいた。

いつだって割と簡単に夢中になる。そうしようと思えば、そうなるからだ。ふりでしかないからすぐに飽きる。(どちらかが)だから彼が私の上に体を傾けて「あいしている」と笑ったときも、その延長だろうと思っていた。それにしては、月日が長かったけれど。「自信がない」と彼は言った。誰も責めることなど、できないのだ。きっと。

気がついたときには、もうおばあたちはいなかった。二人がいた座席の上には蟹がゆっくりと這っていた。目を放した隙にどこかにいってわからなくなってしまって。運転手に終点がどこか聞かなかったことを思い出す。バスは走り続ける。私は背もたれに体を預けてもう少し眠ることにした。日はまだ高い。