カラッポがいっぱいの世界

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「アルフィー」(1966)人妻をオトしたきゃ笑わせろ

 

アルフィー」1966年英作品。マイケル・ケイン主演。

60年代のポップで明るいスウィンギングロンドンを舞台に、アルフィーマイケル・ケイン)という口八丁手八丁の女ったらしが、せっせとガールハント(死語だがこの言葉がよく似合う)に励む日常を彼の独白体で描くコメディ…かと思いきや、どうしてどうして。そんな簡単にオトしてはくれないのがこの映画のいいところ。

アルフィーは、曜日ごとに違う女とデート+セックスにせっせと励むしがないロールスロイスの運転手。女とのデートにちゃっかり仕事用の車を使うような男である。キープと決めていた女が妊娠し、結婚しないまま彼女の家に通い続けるが、自分の息子への愛情を噛みしめ始めた頃、彼女は誠実に愛してくれる男と結婚してしまう。哀しみに暮れながらも結核に冒されていたことがわかったアルフィーは療養もかねて郊外のサナトリウムへ。看護婦とヨロシクやりながらも、同室の男の妻へ手を出すことも忘れない。本復した彼はまたロンドンへ。観光写真撮りの仕事をしていたとき、金持ちの未亡人ルビー(シェリー・ウィンタースがおっかさん的風貌で登場)と出会う。平行して田舎出の少女アニーをひっかけ同棲する。だが、アニーがまだ昔の男を忘れてないと知るや追い出してしまい、そして同室だった男の妻はアルフィーの子を妊娠してしまう。最後、安心を求めて結婚しようと思ったルビーはすでに若い男が。一人、夜の濡れた歩道を歩くアルフィー

のっけからテンポのよい編集と有名なソニー・ロリンズのテーマが流れ、マイケル・ケインのスケコマシ顔とともに期待度も高まる。「俺の名前は(後ろで女性が彼の名を呼ぶ)そうアルフィー」なんて自己紹介したりして、まさにスウィンギングロンドンの才気煥発ぶりが楽しい。計算され尽くした編集を見ていると、描きたいことを全部載せるのではなく、あえてちょっと引くところで趣旨を伝えるという基本中の基本を実感させられた。マイケル・ケインは劇中ほとんど表情を変えない。ちょっと口の端をあげる程度でそれがまた軽佻浮薄ぶりを印象づける結果となっていて実にうまい。また、アルフィーの女ったらしも見事だが、もっと凄いのはそのストライクゾーンの広さ。お相手の女性陣には、どうひいき目に見てもふるいつきたいような美女は一人も出てこない。ほとんどが労働者階級の女工哀史といった風情の女や小汚い無職少女である(もしくは金持ちでもデブおばさんとか)。アルフィー自身も金持ちでもなんでもなくただのその日暮らしの労働者に近い身分設定にしてあるのも、製作者側がこの話をファルスではなく皮肉なサタイアにしたいという意図をそれとなくわからせるかのようだ。人物設定もそうだが、脚本もうまい。「人妻をオトしたきゃ笑わせろ、独身女はただ笑っているだけだど、人妻が笑ったらオトしたも同然。それで旦那を紹介したいっていいだしてきたら、終わりにしろ」「中年女はいい。愛してるなんて聞かないからだ」「見舞いに来た客は、だいぶよさそうだねなんて言って花を渡した5分後にはもう帰りたがっている。そして病室を出てドアを閉めた途端に、もうあいつはながくないな、保険証書を確かめておけ、なんていうんだ。」等々、箴言の連続ナリ。こんなふうにほぼ間断なくしゃべり続け、遠慮外聞もなくやりまくるマイケル・ケインだが、彼があまりにも魅力的なのでしょうがないな、と女の扱いっぷりの酷さにも片目を瞑りたくなってしまう。(とはいいつつもこんな男は恋人ましては友達にも持ちたくない。話のタネ要員の知人としてなら別だが)だがそれも途中まで。

同病室の男の妻が絡んできてから、映画は一気に重量感を増す。重量感は増すがそれで停滞しないのがこの作品の真骨頂で、疾走感はキープしつつそのまま一気にラストまでもっていかれてしまう。人生は、軽く呑んで生きているような男に対してそれ相応の後始末を要求する。我が日本にもアルフィーのようなお調子者(無責任男シリーズなど)がいることはいるが、その映画での植木等はいつでも純情で仕事は適当だが団玲子(をはじめとするおネエちゃんトリオの別な誰かでもいいが)だけをひたすら思って高度経済成長期を邁進する。このあたりのキャラクター造形の差に、日英というよりも見せたいと想定している観客の共感の有無を見るようで実に興味深い。(無責任男が社会に対して適当であるとするならば、アルフィーは自分の人生に対して適当である。)しまったアルフィーの話だった。

劇中何度か「これは金持ち用と店員が言ってたぜ」と階級差を意識させるようなせりふがでてくる。だがアルフィーはいわゆる「怒れる若者たち」とは違い、走るわけでもなく破壊するわけでもなく、ただ無為にその日を享楽的に送るだけだ。階級差を縮めようとも、なりあがろうともしない。そこにある種の潔さと諦観を感じるがゆえに、私はあまり彼のことを否定できないのかもしれない。虚無でありニヒリストであるアルフィー。絶望すると人はかえって明るくなるものだとサガンはいったが、アルフィーは最後まで(やや疲労の色を濃くしながらも)明るい。絶望をその大きな瞳に湛え、戸惑ったような明るさのアルフィーと、骨太のロリンズによるテーマが和音のように協調したからこそ、この映画は傑作足りえているのだと思う。殿方にこそ見てほしい。深淵をのぞいたとき、向こう側からのぞき返すのは誰なのか、確かめるために。

ラスト、アルフィーには雌犬を追い掛け回してばかりの雄犬がそっと寄り添う。一人と一匹はそのまま闇の街へ消える。おもしろうてやがてかなしき。アルフィーよ(そして男たちよ)どこへ行く。