カラッポがいっぱいの世界

Greed makes the city shine brighter. 날 좋아하는 분들 내 사랑 먹어 東映映画と特撮

エロ表現と子育てとジェンダーバイアス

太田先生のこのtwが話題になっているようだ。

 

元々はこちらのtwである。

私も最初この画像を見た時に「これはアウトだろ」と思ったのだけど、他の方のtwを読むと露出が多いからアウトだと思っていて、この程度の表現に慣れさせろだのと少しズレてないかと感じる意見も見受けられた。
露出が多いからと問題視している方もいるかもしれないが、私はむしろ「嫌がっている、怒りの表情を浮かべているのに衣服を剥ぎ取られて全裸に近い状態になっている」ことに驚いた。こんなのアリにするのかよ、と。

嫌がる女性の衣服を剥ぎ取ることは刑法犯であるが、作者はそれをどこまで意識していたのだろうか。また露出が多い服装であっても、なぜ嫌がる表情をチョイスしたのだろうか。着衣で笑顔の表現になぜしなかったのだろうか。即座にそんなことが頭に浮かんだ。

「いやこれはたまたま偶然風に煽られて着衣が取れただけの、いわばラッキースケベというやつですよ。だから主人公には罪がないんです」という人もいるだろう。だがこういうシーンをわざわざ選ぶ、しかも読者投票のランキングで、というのが問題があると思った。先ほども書いたが、別に着衣が剥ぎ取られた姿を選ぶ必然性を感じない。これでは、読者は、嫌がっている女性が裸になっている姿を盗視しているのと一緒で、作者によっていわば共犯関係にされている。これが少年誌でやることなのだろうか、と思う。

男児はああいうエロで大人になる」なんてことを書いてた人もいたが、母親の立場としてみれば、そんなエロで大きくなったらたまらない。何かのアクシデントで女性の衣服が取られて全裸に近い状態になってしまったのを喜ぶなんて、盗撮的思考を育てて欲しくない。

そんなことを考えながら、私は以前から抱えている問題について思わずにはいられなかった。

私の子供は今、小学校に通っているが、先日、モアナを見に行こうと誘ったところ「いやだよ、あんな女向けの映画なんて」と言い出した。前年、ズートピアを見に行った際にはそんなこと一言も言わなかったのに。なぜ女向けと思うかと重ねて尋ねると「女性が主人公だから」という返答だった。女性が主人公の作品は女向けだから見ない。私は大変驚いたし、同時にとうとうジェンダーバイアスと向き合う時が来たのか……とも思った。

子供を産んで何より実感させられたのは、世の中にどれほど多くのジェンダーバイアスが潜んでいるのか、ということだった。「男の子だから泣くんじゃありません」おままごと遊びをすれば「男の子なのにあんな遊びをしていいの?」等々。私自身、息子の発語が遅くて気を揉んでいた時に「男の子は遅い場合が多い」という言葉に救われたりもした。しかし、それはあくまでも成長過程の差の話。年齢が上がるに従ってジェンダーバイアス的な内容を投げかけられることが増えていく。例えばテレビを見れば、女の子は守りと可愛さ担当、男の子は戦うパターンの、なんと多いことか。そんなこともあって、私はできるだけ息子にはカートゥーンネットワークを見せていた。カートゥーンネットワークジェンダー規範からかなり自由な作品が多く(人気番組のスティーブンユニバースでは戦うのは女性で、主人公の男子スティーブンは守りや癒しを担当している。また女性同士の恋愛も描かれている)引っかかる表現に出くわすことなく見せることができた。そうして息子はジェンダーバイアスはさほどないだろうと自負していたのに。

こんな風に気をつけていても、いつのまにかジェンダーバイアスが刷り込まれてくるので、都度修正しているのだが、なかなか追いつかない。かといって子供をガチガチに管理するわけにもいかない。社会が子供を育てる、という負の側面に直面している。

先のtwに関しての意見で「子供の性教育的なところまで社会に求められても困る、家庭でやってほしい」というのも目にした。だが、こんな風に社会からの刷り込みに抗っていると、社会の責任をネグって「それは家庭でやれ」の一点張りなのは、さすがに社会が子供を育てる意識が欠落してると言わざるを得ないのではないかという思いはどうしても湧き上がってくる。社会や学校でできることに限界があるように、家庭においても限界はある。それらは相互補完しあって、次世代の育成というテーマに向かうべきだと思うのだが、現状はこんな風に親の自己責任で押し通されてしまうことが多い。社会がこんな風だと私の努力など蟷螂の斧ではあるが、できるだけ、やるだけのことはやっておきたい。

それでも女児の親御さんに比べたら、なんてことことはないという気持ちでいる。女児は、ジェンダーバイアスに加えてごく幼い頃から(オムツ替えすらも)性的消費の対象となっている。そして時には自分の夫すらも疑わなければならない時もあるだろう。心中察するにあまりある。
私にできることといえば、せめて自分の子だけはそんなジェンダーバイアスゴリゴリの馬鹿男になって欲しくないし、そうならないように育てるということぐらいだ。しかしそうやって育てたらもしかして「ノリが悪い」だのと同調圧力の元でいじめにあうかもしれない、などと考えると暗澹たる気持ちになる。息子が大きくなる頃には「嫌がる女性を無理やり……って人権侵害でしょ」「ノーがイエスの表現だって?馬鹿じゃないの?」と言えるのが当たり前の世の中になってほしい。性暴力を「エロいもの」として男性が消費するのを、古い昭和的な前近代的なものとなっている世界であってほしい。そのために、私はできるだけ自分の子供には、性暴力はエロではない、と教えていきたい。拒否している、嫌がっている相手に無理やり性的な行為を強いてはいけないし、予測不可能な出来事で肌が露出してしまい、恥ずかしがっている人の姿を見て性欲を解消したり喜んではいけない。拒否は拒否であって、イエスではないと。

女性の主体を剥奪し、性欲の対象としてのみ扱い、消費することに慣れてしまうと、人として扱うことが難しくなってしまうのではないか。小さい頃からそんな価値観を刷り込まれていたら、セクハラをお色気シーンと理解して、娯楽として楽しむ、なんて真似ができてしまうのだろう。拒否をイコールに読み替えられるのも女性としての主体性などハナから認めないからこそできることだ。仮に、セクハラや性暴力を娯楽として、エロとして消費できるとするならば、それがファンタジーであり、現実には到底ありえないし、あってはいけないことだということがコンセンサスとして確立・徹底されている社会だけであって、女性側がいくら拒否を訴えても男性側がそれを拒否と受け取らなければ強姦にならないという判例のある国では無理だろう。拒否は拒否であるというコンセンサスが確立するのは、一体いつなのか。

今回はこちらの作品が槍玉に上がったが、前々から表現作品において「セクハラ」が気軽に描写されているのが気になってしょうがなかった。犯罪描写だったら、劇中で報いを受けるのがセオリーだと思うのだがことセクハラだと性暴力にもかかわらずサービスシーンとして処理されてしまう。現在差別的な表現はそれを否定する表現とセットになってないと糾弾されるわけだが、女性へのセクハラ・性暴力表現(ラッキースケベ含む)特に何も罰を受けずそのままになっていたり(あるいは女性はいやーん等の軽い拒否で終わるとか)、必然性なくただ消費のために存在していたりする。編集者はこれがアフリカ系アメリカ人に対して多人種・民族がニガーと言ってそのまま肯定的に終わらせるような表現であっても掲載したのだろうか。でも女性は嫌がっていても衣服を剥ぎ取ってもいいし、怒りの表情で裸にされているのを掲載してもいい。そしてこれらの性暴力表現を「お色気」と言って消費してもいい。その「区分け」は一体どこからくるのか。

ポリティカルコレクトネスを考慮した作品が昨今アメリカその他から発信されるようになっている。アメコミではミズマーベルはイスラム系女子になったし、キャプテンアメリカもアフリカ系男性になったりした。今度公開される映画パワーレンジャーにはコーカソイド、アフリカ系、アジア系、LGBTもメンバーに含まれている。(とはいえリーダーがコーカソイド男性については議論の余地があるだろう)ポリコレ棒と言って叩かれたり嗤われたり揶揄されたりしているようだが、ある方によると、ポリティカルコレクトネスを考慮するようになったアメコミはコミックの純粋な売り上げだけで2015年の時点で10億ドルを超えていて、しかもデジタルでなく紙媒体で9億ドルを超えるように大盛況となったそうだ。ポリコレで顧客が離れるどころかより広範な支持を獲得しているように思える。日本のコミック市場は5000億円程度だそうで、かつ、先細りしているのはよく知られた話だ。ポリティカルコレクトネスは表現の間口を狭めるどころか、むしろ間口を広げ、新たな顧客を呼び込む作用があるように思えてならない。

複数の出版関係者から聞く話を総合すると、様々な差別表現に対して業界のコンセンサスなど無いに等しいとしか私には思えない。現実問題として、それらは個々の編集者の良識や教養、経験や知識によってかろうじてストップがかけられているのが実態なのではないか。だからこそ差別表現や性暴力表現があれば、掲載媒体の編集部へ抗議の電話をしていくことが大事であると私は考える。抗議によって何が良くて何が悪いのか、編集者側も理解していくとしたら、消費者側も積極的に問題表現について訴えていけば、「誰のことも考慮した表現」の実現へと繋がっていくように思える。

一見すると「誰のことも考慮した表現」は多方面に気を配ることから「息苦しく自由度の低い」ものに見えるかもしれない。であるならば、住み分けをすることも考えるべきだ。レイティングとゾーニングを徹底し、低年齢向けにはポリティカルコレクトネスを考慮した作品を掲載し、他方でなんでもありな表現を掲載できる媒体を用意する。誰の目にもつきやすい、手に入れやすい媒体は「考慮した媒体」として、性暴力表現を肯定的に扱うことや、差別表現を避ける。誰かの足を踏まないように気をつけること、「息苦しい表現」を選択していくのが必要な時期に入っているのではないか、と私は思う。ちなみに徹底したゾーニングとレイティングでしか業界が生き残る方法はない、というのはエロ本ライターをしていた夫の持論でもある。

自分の足を踏ませないし、誰かの足も踏まないようにする。それがそんなに難しいことだとは私には思えないのだけど。