カラッポがいっぱいの世界

Greed makes the city shine brighter. 날 좋아하는 분들 내 사랑 먹어 東映映画と特撮

「チョムスキーとメディア マニュファクチャリング・コンセント」(1992)

ノーム・チョムスキー言語学界におけるアインシュタインと称され、コペルニクス的転回をもたらした最重要知識人といわれる。彼はユダヤ人でありながら、イスラエルの政策を批判するなど、かなりなリベラリストとしても知られる。(アナーキストな夢想家とも揶揄されたりする)この映画は、1992年製作なのでネットがこれほど広汎な地域性を獲得してしまった今いささかその言説には古びてしまっているところもあるが、チョムスキーの主張そのものは真正面から捉えるべきものであると私は思う。

ウィリアム・ランドルフ・ハーストの時代からメディアはつねに「権力者」の意向に沿ってきたのは明白な事実であり(「事実かどうかは重要でなく、チーフ(ウィリアム・ランドルフ・ハーストの呼び名)の意向にそっているかどうかが問題だった」とハースト系新聞社の編集長は述べている)、いまこの社会においても偏向報道というのは(少々気をつけてマスコミ報道を注視している人間にとっては)当たり前の話であるといえる。映画はチョムスキーの経歴をたどりながら、その講演内容、ならびにマスメディア出演時のコメント、論争相手とのやりとりなどを通し、チョムスキーの「姿勢」を明らかにしていく。映画はかなり長く二部構成となっている。

 

第一部はカンボジアで起きたクメールルージュとほぼ同時期に起きた東ティモールにおける同様の案件を取り上げ、チョムスキー曰く「米国政府がインドネシア政府へ武器支援ならびに暴動支援していたがゆえに、マスメディアが沈黙し東ティモールにおける虐殺は“なかったこと”になってしまった」経緯を考察し、マスメディア側の主張もまじえつつ、プロパガンダの実態を追求していく。

第二部は、チョムスキーがある歴史修正主義者の「立場」に対して擁護した事件を取り上げ、そのことに対する賛否、当事者である歴史修正学者の意見、また、市民出資型テレビといった多様化する市民参加型メディアを紹介しながら、その可能性に対するチョムスキーの「期待」などを論じている。計3時間あまり。正直途中寝てしまったところもあった。

「マニュファクチャリング・コンセント」とは「偽造の合意」という意味。「合意」を「偽造」しているのは誰か。チョムスキーは、「権力者」が「知識人」には思想注入し、「大衆」にはプロパガンダによって事実を隠蔽、世論を自分達にとって都合の良い方向へ動かそうとしている、という。実際のところ、チョムスキーの述べるような二項対立構造でプロパガンダなり、思想注入が行われているとしたらまだマシかもしれないと私は思う。私が問題だと思っているのは明確な意思表示もなく「空気」で決定されていくことだ。映画の中でニューヨークタイムズの編集長が「忙しくてホワイトハウスの誰かからなにかいわれる前にはもう記事になっている」というが、おそらくそれはまさにそのとおりなんだろう。だが考えてみれば、総理大臣が積極的にマスコミと会食し、NHKの解説委員が露骨に総理擁護のコメントをだすことを思えば、チョムスキーの指摘はむしろ現代ニッポンにそのまま当てはまってしまうと言える。そしてその「偽造された合意」のなかで編集長は確固たる信念に基づいて「検閲」を行っているのではなく、それよりはむしろ、その上の局長の許可が下りないことが分かっており、そしてその局長は部長の、部長は支局長の、支局長は支社長の、支社長は取締役の、取締役は社主の、そして社主はだれへの気兼ねから許可しないのではないだろうか? そこには明確な禁忌はなく、いわゆる「空気を読んだ」「大人の判断」が支配しているに過ぎない。問題はその「空気を読んだ」「大人の判断」にあるのだ。世の中の世論を動かしているのはこの行為--長いものには巻かれろ式の--であると私は思う。

 

私は彼のように大衆に対して期待できない(彼はアナルコ・サンディカリズムの信奉者というのもあるのだろうが)。大衆を啓蒙すべきところにあると位置づけながら大衆と寄り添おうとするのはある種の矛盾をどうしても生じさせてしまうのではないだろうか。そういう意味で「大衆」というコマの奪い合いにも見えてしまう。果たして「大衆」が本当に「真実」を知るための努力をすべきかまたしたいのか、私は疑問である。それよりもただ与えられた情報を信じていたほうがラクだと思うヒトビトで世論は形成されているのではないだろうか。つまり「合意」を「偽造」しているのは他ならない「大衆」の「意思」だと私は思っている。(であるがゆえに、私は「大衆」になにも期待していないわけだが)

 

おそらくチョムスキーもそのことは熟知しているのだろう。彼が期待する市民参加型メディアなんてもうこのネットの隆盛を見れば衰退は火を見るより明らかだろうし、それよりもこの一人一人が情報を発信するという「誰しもが15秒だけ有名人になれる」社会においては、精査するべき情報であふれかえり、ただ人はその「仕事量」に対して、途方に暮れるだけではないだろうか。勝ち組負け組理論で二分化するならば、今後は情報をどれだけ分析・精査できるかが、その分かれ目になってくることは想像に難くない。皮肉なことに「大衆」に「情報」が行き渡った結果、能力差は拡大する一方だ。「格差社会」というのなら、これほど「過酷な」格差が出現することを真にさすべきではないだろうか。残念ながらこの映画は上記のように1992年製作のため、現在のネット環境その他については触れられていない。だが、だからといって、この高度情報化社会において、昔ながらの陰謀説じみたチョムスキーの主張は黙殺されるべきものなのだろうか。私は、ネット上にあふれかえるプロパガンダと(自分こそは情報通であると思い込んでいる)その信奉者を目の当たりにするにつけ、今こそチョムスキーの言う「プロパガンダを疑え」を実感するべきだ、と思う。

チョムスキーはその主張の普遍性だけではなく、その学者としての「姿勢」に私は共感する。彼はユダヤ人でありながら、ホロコースト主義者を擁護したせいで非難される。チョムスキーは「ホロコーストがあったとかなかったとか口にする時点で人間性の欠如を表している」と書いた自身の論文を引き合いに出した上で、「それでも彼の“発言する権利”は守られるべきだ」と断言する。「私は君の意見に反対だ。しかし君がその意見を発表しようとする自由は死んでも擁護しよう。」という例のヴォルテールの言葉は頻繁に引用されるし、引き合いに出す人は多い。だが、果たして彼らのうちでそれを実行できる人間がどれほどいるのだろうか。もし仮に西尾幹二が韓国の政治団体から発言禁止および出版禁止の仮処分申請を裁判所に申し立てられたとして、本多勝一は彼を擁護するだろうか?そういったチョムスキーの「誠実さ」や彼を突き動かす動機(「鏡の前の自分を直視できるかどうかなんだよ」)に青臭いだの夢想家だのといった言質を浴びせるのはたやすい。だが、右左といった思想性を超えたところで彼の行動や言動が普遍性を獲得しているのもまた事実なのだ。「誠実」さゆえ、彼は「大衆」の中にある情報精査分析力に期待し、呼び覚ますため「啓蒙」しようと、否定されようが愚弄されようが売られた喧嘩は買い続け、講演をし、大衆のために寄り添おうとしているんだと思う。そういう意味で彼はドン・キホーテ的な人物であるような気がする。(日本の某唯一ネ申と共通するものがある)

チョムスキーの努力はある種の観点からすれば徒労としか言いようがなかったりするが、私はこの映画をみてあの言葉を思い出すのだ。「でもやるんだよ」