カラッポがいっぱいの世界

その「選択肢」を疑え。

沖縄戦における、ある体験談について

私の友人に沖縄在住者がいる。来訪した際に幾度かそのご家族から沖縄戦にまつわる話を聞いた。それを文章化したものを以前にもWebにて発表したことがあり、先日その内容をざっとTwitterに書いたら、意外にも多くの方がRTしてくださったようなので、再度こちらにも掲載したい。この話を私にしてくださった友人ご尊父*1には心からお礼を申し上げる。

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(友人から)聞いたと思うけど、ボクの姉がね、ひめゆり部隊にはいったんです。参加するちょっと前に近所に住んでいた人がせっかくだからと家族写真を撮ってくれてね。それが唯一の皆がそろった写真となってしまった。不思議なことにね、姉はユタ*2にね、姓名判断してもらったときに、10代で水難の相がある、といわれたよ。残念なことにその通りになってしまった。*3母はずいぶん悲しんでね、慰霊碑には一字多く彫ってもらってあるんだよ。

今日、平和の礎にいったの?あそこに多分姉の名前もあると思う。(姉のことは)もうずいぶん記憶から薄れてしまったけれど。

あのとき…沖縄に米兵が上陸したとき、ボクらは、北へ、山へ逃げたんだよ。父が女学校の校長をしていたから、それでツテのある先生のところへいこうと叔父からなにからみんなで逃げた。隣近所の人も、その頃になったらもうみんな逃げてたけど。

昼間は米兵が活動するから、夜逃げてね。山道の、荒れた道で、右手は崖のようになっていて、崖下は川だったと思う。父がいった「土手を左手で触りながら歩け」というその言葉を守ってね。父はその辺りをよく行き来していたそうだよ。だからある程度はどんな道かわかっていたみたいで、ボクらは父の先導の元なるべく急いで逃げた。雨が降ったりしてぬかるんでいて細い道。ずいぶん歩きにくかったよ。ボクは父の靴だけみて歩いた。我々を追い抜いていった夫婦が、カーブしている道をそのまま突っ切ってしまい、女の人が――赤ちゃんを抱えていたなあ――あっという間に足を踏み外して落ちたんだよ。立ち止まって「オーイ」と声をかけたら「大丈夫だよー」と返ってきたんで旦那さんだけ残して先を急いだ。でも気持ちとは別に足はすすまない。暗くて怖いし道は悪いし。

時折、米軍の照明弾が炸裂して、ものすごく明るくなる。そのときはソレッと駆け出す。それでずいぶん距離を稼いでね。後はじりじりとすすんだ。昼間は集落が捨てた壕の中や、ガマっていう洞窟みたいなところで隠れて休んでいた。ある日いつものように壕で休んでいたら、叔父が真っ青な顔して駆け込んできた。「アメリカーが来(ち)ょーん」*4といって。当時叔父は警察官をしていてね。それなのにおかしなぐらいぶるぶる震えて、どうにもならないくらいだった。続けて父がはいってきた。同じく音がするんじゃないかっていうぐらいぶるぶると震えていたよ。食料を探していたら、パンパンと銃を撃つ音がして、がさがさと英語らしき話し声が聞こえたそうだ。叔父は機転が利くからわざと全然別な方向へ石を投げて、米兵の話し声が聞こえなくなってから、ゆっくりと歩いてもどってきたそうだ。そんな近くまでもう米兵はきていたんだね。あんな二人の姿、後にも先にも見たことがなかった。しばらくしたら銃撃がはじまった。それが日本兵と米兵の戦闘なのか、米兵が捜索のためにわざと銃を撃っているのか、それはわからない。激しい銃声だった。壕の入り口は木の枝かなんかでカモフラージュしていたけど、硝煙が壕の中に充満してきて咳をおさえるのに必死だった。音を立てたら見つかるかもしれないからね。この壕にはボクたちの他、家族に取り残されたおじい*5がいたけれども、このおじいさんは耳が凄く遠くて、突然大声を発することがあった。だからボクはこのときおじいさんの口をふさぐ役をしていた。「おじいさん声を出さないでください」と。やっと米兵が引き上げてようやく静かになり。日が暮れるのを待ってボクらは壕をでて山奥に向かった。そのおじいさんがどうなったか、わからない。

避難地まで逃げる途中に、おかしな兵隊さんに会ったなあ。上半身は裸で、帽子だけして、手製のヤリみたいなのを肩に担いで、そこに上着なんかをぶら下げて歩いていた。沖縄出身だと言ってその人は歩きながら、「このヤリで米兵を5人殺した」って話してたよ。「二人は池の中で、短刀で刺して殺した。後の3人はヤリで殺した」短刀ももっていて、服も濡れていて、ホントみたいだったけど、でもちょっと話が出来すぎているので怪しいなと思った。米兵をやっつけた証拠があるから、それを見せて、この大東亜戦争が勝利した暁には、ゼッタイに偉くなるんだ、っていってたなあ。その人は一生懸命父に「自分が生まれた村はまだ安全だから一緒について来い」っていったけど、なんだかアヤシイからね。父は断って知り合いの先生のいる避難地にいったよ。あの人はどうしたかね。

ようやく知り合いの先生のいる村についた。山奥でね。先生は山の中のくぼ地に、壕――掘っ立て小屋みたいなのを作ってくれてね。ボクら――家族親類縁者含めて13人ほどだったかねえ――はそこで暮らすことにした。食料はないけど、比較的落ち着いて過ごすことが出来た。でも腹は減ってねえ。ほらあそこにある大きな葉っぱわかりますか?(とご尊父は庭にあるハート型をした葉を指差した。かなり大きい。)あれね“食わず芋”っていって芋ができるんだけど食べられないのですよ。いまはああして見事な葉ができるものだから、観賞用として庭に植える人が多いけどもね。もう腹が減って仕方なかったボクは、食わず芋っていうけど、ひょっとしたら食べられるんじゃないかって掘って食べたけども…あれは蒸したかなんかしたかねえ、一口食べたらもう吐いてしまって大変だった。私の母がね、その村でいちばんの年寄りにね、どうしたらいいですかって聞いたらね、黒糖と豚の脂を混ぜて丸薬みたいにして飲ませろ、とこういったよ。どういう作用かその辺がボクにはよくわからないのだけども、飲んだらね、不思議とよく効いたねえ。

そのお世話になった先生は動物を飼っていてね。馬とかヤギとか。あるとき、日本兵が村に来て、馬をだせ、と、こういうんだ。現地徴用すると。仕方ないから渡してね。馬を連れて日本兵が去ったあと、銃声がしたよ。恐らくは馬をつぶして食べたんだろうねえ。その先生は、もうこうなったら自分たちで食べてしまおうと、残った山羊をつぶしてボクたちにもってきてくれた。ところがこれが困った。ボクのウチはご先祖からの言い伝えで、山羊を食べてはいけないといわれていたんだね。なんでもご先祖様は山羊に助けられたことがあるから、その恩返しに、とそういう誓約をしたらしいんだけれど。*6家族で悩んでね。食べなきゃ死んでしまう。でも食べたらご先祖様に背く。そしたらね、父がうまいことをいったんだよ。「確かにご先祖様は山羊に助けられた。でもいまだってそうだ。これを食べることでわしらは助かるんだ」と。上手い言い訳といったらあれだけれども、ともかくそれをボクらは食べて、助かった。

集落の回りを米兵たちが囲んでいるのだろうということはわかっていた。投降する人びとも増えてきた。時々食料を交換した村の人びとの中で戦局に詳しい人がいて、どうみてもダメだろうといっていたそうだよ。でも非国民と呼ばれることをおそれて父たちはどうしても簡単には投降できなかった。その頃になると米兵とも交流があってね。食料をねだったり、彼らが捨てるために埋めたモノをまた掘り返したりして食料を賄ったりしてた。ボクもよく掘り返してねえ。でも掘り返したら米兵達が用を足した後だったりしたことも幾度もあったよ。ただもうそのうち食料はどうしても底をついてきた。父たちは話し合って、余力があるうちに投降しようと。でもこれは本当に恐ろしいことだった。もし日本が勝ったらボクたちは大変な反逆者になってしまう。今の自分たちがどのような状況におかれようとも、なにしろ日本が負けるわけがないと思っていたからね。必ず本土から応援が来て戦局が好転するに違いないと信じていた。でも幾晩も話しあって、このままじゃみんな死んでしまうからどうせ死ぬなら米兵のところにいって死のう、ということになって、付近で同じように隠れている住民と一緒にみんなで、村長さんが白旗を掲げて、山を降りたんだ。たしか7月の…初旬頃だったと思う。

空が青かった。本当に、青かったよ。

*1:ちなみにご母堂からは対馬丸疎開する予定だったが土壇場で乗らないことになったら…という話を伺った

*2:沖縄特有の女性霊媒師占い師

*3:ひめゆり平和祈念資料館の記録を読むと、避難中摩文仁の海岸付近にて波にのまれてしまったらしい

*4:沖縄方言で「アメリカがきている」という意

*5:沖縄方言で「おじいさん」という意

*6:沖縄は先祖崇拝が非常に強い土地柄である