カラッポがいっぱいの世界

その「選択肢」を疑え。

エロ表現と子育てとジェンダーバイアス

太田先生のこのtwが話題になっているようだ。

 

元々はこちらのtwである。

私も最初この画像を見た時に「これはアウトだろ」と思ったのだけど、他の方のtwを読むと露出が多いからアウトだと思っていて、この程度の表現に慣れさせろだのと少しズレてないかと感じる意見も見受けられた。
露出が多いからと問題視している方もいるかもしれないが、私はむしろ「嫌がっている、怒りの表情を浮かべているのに衣服を剥ぎ取られて全裸に近い状態になっている」ことに驚いた。こんなのアリにするのかよ、と。

嫌がる女性の衣服を剥ぎ取ることは刑法犯であるが、作者はそれをどこまで意識していたのだろうか。また露出が多い服装であっても、なぜ嫌がる表情をチョイスしたのだろうか。着衣で笑顔の表現になぜしなかったのだろうか。即座にそんなことが頭に浮かんだ。

「いやこれはたまたま偶然風に煽られて着衣が取れただけの、いわばラッキースケベというやつですよ。だから主人公には罪がないんです」という人もいるだろう。だがこういうシーンをわざわざ選ぶ、しかも読者投票のランキングで、というのが問題があると思った。先ほども書いたが、別に着衣が剥ぎ取られた姿を選ぶ必然性を感じない。これでは、読者は、嫌がっている女性が裸になっている姿を盗視しているのと一緒で、作者によっていわば共犯関係にされている。これが少年誌でやることなのだろうか、と思う。

男児はああいうエロで大人になる」なんてことを書いてた人もいたが、母親の立場としてみれば、そんなエロで大きくなったらたまらない。何かのアクシデントで女性の衣服が取られて全裸に近い状態になってしまったのを喜ぶなんて、盗撮的思考を育てて欲しくない。

そんなことを考えながら、私は以前から抱えている問題について思わずにはいられなかった。

私の子供は今、小学校に通っているが、先日、モアナを見に行こうと誘ったところ「いやだよ、あんな女向けの映画なんて」と言い出した。前年、ズートピアを見に行った際にはそんなこと一言も言わなかったのに。なぜ女向けと思うかと重ねて尋ねると「女性が主人公だから」という返答だった。女性が主人公の作品は女向けだから見ない。私は大変驚いたし、同時にとうとうジェンダーバイアスと向き合う時が来たのか……とも思った。

子供を産んで何より実感させられたのは、世の中にどれほど多くのジェンダーバイアスが潜んでいるのか、ということだった。「男の子だから泣くんじゃありません」おままごと遊びをすれば「男の子なのにあんな遊びをしていいの?」等々。私自身、息子の発語が遅くて気を揉んでいた時に「男の子は遅い場合が多い」という言葉に救われたりもした。しかし、それはあくまでも成長過程の差の話。年齢が上がるに従ってジェンダーバイアス的な内容を投げかけられることが増えていく。例えばテレビを見れば、女の子は守りと可愛さ担当、男の子は戦うパターンの、なんと多いことか。そんなこともあって、私はできるだけ息子にはカートゥーンネットワークを見せていた。カートゥーンネットワークジェンダー規範からかなり自由な作品が多く(人気番組のスティーブンユニバースでは戦うのは女性で、主人公の男子スティーブンは守りや癒しを担当している。また女性同士の恋愛も描かれている)引っかかる表現に出くわすことなく見せることができた。そうして息子はジェンダーバイアスはさほどないだろうと自負していたのに。

こんな風に気をつけていても、いつのまにかジェンダーバイアスが刷り込まれてくるので、都度修正しているのだが、なかなか追いつかない。かといって子供をガチガチに管理するわけにもいかない。社会が子供を育てる、という負の側面に直面している。

先のtwに関しての意見で「子供の性教育的なところまで社会に求められても困る、家庭でやってほしい」というのも目にした。だが、こんな風に社会からの刷り込みに抗っていると、社会の責任をネグって「それは家庭でやれ」の一点張りなのは、さすがに社会が子供を育てる意識が欠落してると言わざるを得ないのではないかという思いはどうしても湧き上がってくる。社会や学校でできることに限界があるように、家庭においても限界はある。それらは相互補完しあって、次世代の育成というテーマに向かうべきだと思うのだが、現状はこんな風に親の自己責任で押し通されてしまうことが多い。社会がこんな風だと私の努力など蟷螂の斧ではあるが、できるだけ、やるだけのことはやっておきたい。

それでも女児の親御さんに比べたら、なんてことことはないという気持ちでいる。女児は、ジェンダーバイアスに加えてごく幼い頃から(オムツ替えすらも)性的消費の対象となっている。そして時には自分の夫すらも疑わなければならない時もあるだろう。心中察するにあまりある。
私にできることといえば、せめて自分の子だけはそんなジェンダーバイアスゴリゴリの馬鹿男になって欲しくないし、そうならないように育てるということぐらいだ。しかしそうやって育てたらもしかして「ノリが悪い」だのと同調圧力の元でいじめにあうかもしれない、などと考えると暗澹たる気持ちになる。息子が大きくなる頃には「嫌がる女性を無理やり……って人権侵害でしょ」「ノーがイエスの表現だって?馬鹿じゃないの?」と言えるのが当たり前の世の中になってほしい。性暴力を「エロいもの」として男性が消費するのを、古い昭和的な前近代的なものとなっている世界であってほしい。そのために、私はできるだけ自分の子供には、性暴力はエロではない、と教えていきたい。拒否している、嫌がっている相手に無理やり性的な行為を強いてはいけないし、予測不可能な出来事で肌が露出してしまい、恥ずかしがっている人の姿を見て性欲を解消したり喜んではいけない。拒否は拒否であって、イエスではないと。

女性の主体を剥奪し、性欲の対象としてのみ扱い、消費することに慣れてしまうと、人として扱うことが難しくなってしまうのではないか。小さい頃からそんな価値観を刷り込まれていたら、セクハラをお色気シーンと理解して、娯楽として楽しむ、なんて真似ができてしまうのだろう。拒否をイコールに読み替えられるのも女性としての主体性などハナから認めないからこそできることだ。仮に、セクハラや性暴力を娯楽として、エロとして消費できるとするならば、それがファンタジーであり、現実には到底ありえないし、あってはいけないことだということがコンセンサスとして確立・徹底されている社会だけであって、女性側がいくら拒否を訴えても男性側がそれを拒否と受け取らなければ強姦にならないという判例のある国では無理だろう。拒否は拒否であるというコンセンサスが確立するのは、一体いつなのか。

今回はこちらの作品が槍玉に上がったが、前々から表現作品において「セクハラ」が気軽に描写されているのが気になってしょうがなかった。犯罪描写だったら、劇中で報いを受けるのがセオリーだと思うのだがことセクハラだと性暴力にもかかわらずサービスシーンとして処理されてしまう。現在差別的な表現はそれを否定する表現とセットになってないと糾弾されるわけだが、女性へのセクハラ・性暴力表現(ラッキースケベ含む)特に何も罰を受けずそのままになっていたり(あるいは女性はいやーん等の軽い拒否で終わるとか)、必然性なくただ消費のために存在していたりする。編集者はこれがアフリカ系アメリカ人に対して多人種・民族がニガーと言ってそのまま肯定的に終わらせるような表現であっても掲載したのだろうか。でも女性は嫌がっていても衣服を剥ぎ取ってもいいし、怒りの表情で裸にされているのを掲載してもいい。そしてこれらの性暴力表現を「お色気」と言って消費してもいい。その「区分け」は一体どこからくるのか。

ポリティカルコレクトネスを考慮した作品が昨今アメリカその他から発信されるようになっている。アメコミではミズマーベルはイスラム系女子になったし、キャプテンアメリカもアフリカ系男性になったりした。今度公開される映画パワーレンジャーにはコーカソイド、アフリカ系、アジア系、LGBTもメンバーに含まれている。(とはいえリーダーがコーカソイド男性については議論の余地があるだろう)ポリコレ棒と言って叩かれたり嗤われたり揶揄されたりしているようだが、ある方によると、ポリティカルコレクトネスを考慮するようになったアメコミはコミックの純粋な売り上げだけで2015年の時点で10億ドルを超えていて、しかもデジタルでなく紙媒体で9億ドルを超えるように大盛況となったそうだ。ポリコレで顧客が離れるどころかより広範な支持を獲得しているように思える。日本のコミック市場は5000億円程度だそうで、かつ、先細りしているのはよく知られた話だ。ポリティカルコレクトネスは表現の間口を狭めるどころか、むしろ間口を広げ、新たな顧客を呼び込む作用があるように思えてならない。

複数の出版関係者から聞く話を総合すると、様々な差別表現に対して業界のコンセンサスなど無いに等しいとしか私には思えない。現実問題として、それらは個々の編集者の良識や教養、経験や知識によってかろうじてストップがかけられているのが実態なのではないか。だからこそ差別表現や性暴力表現があれば、掲載媒体の編集部へ抗議の電話をしていくことが大事であると私は考える。抗議によって何が良くて何が悪いのか、編集者側も理解していくとしたら、消費者側も積極的に問題表現について訴えていけば、「誰のことも考慮した表現」の実現へと繋がっていくように思える。

一見すると「誰のことも考慮した表現」は多方面に気を配ることから「息苦しく自由度の低い」ものに見えるかもしれない。であるならば、住み分けをすることも考えるべきだ。レイティングとゾーニングを徹底し、低年齢向けにはポリティカルコレクトネスを考慮した作品を掲載し、他方でなんでもありな表現を掲載できる媒体を用意する。誰の目にもつきやすい、手に入れやすい媒体は「考慮した媒体」として、性暴力表現を肯定的に扱うことや、差別表現を避ける。誰かの足を踏まないように気をつけること、「息苦しい表現」を選択していくのが必要な時期に入っているのではないか、と私は思う。ちなみに徹底したゾーニングとレイティングでしか業界が生き残る方法はない、というのはエロ本ライターをしていた夫の持論でもある。

自分の足を踏ませないし、誰かの足も踏まないようにする。それがそんなに難しいことだとは私には思えないのだけど。

 

 

「怪獣使いと少年」を息子と見た日

帰ってきたウルトラマン第33話「怪獣使いと少年」を息子と見た。

 

話の内容は、川べりの廃屋に住みながら、地面を掘り返している少年がいる。その少年が宇宙人だと言って、中学生?たちがからかいに来るが、不思議な超能力でやり返されたため、より酷い虐待をされる。そこを郷隊員が駆けつけ、救うが、少年は宇宙人であるという噂が広まり、街へ買い出しに行っても宇宙人は出て行けと追い返されるようになる。実は少年には匿っている宇宙人「メイツ星人」がおり、地球の酷い環境のせいで死にかけている。少年はメイツ星人を「おじさん」と慕っている。郷隊員にメイツ星人は、川べりには自分が乗ってきた宇宙船が埋まっていて、少年は自分をメイツ星に返すために、宇宙船を掘り出そうと毎日穴を掘っているのだ、という。郷隊員が少年と一緒に穴を掘っていると、「宇宙人を殺せー」と警官を先頭に街の人間が武器を持って押しかけてくる。少年が殺されそうになると、メイツ星人がやってきて、自分が宇宙人だ、と告げる。その時、警官に撃たれ、メイツ星人は死ぬ。メイツ星人が死ぬとともに、彼によって封印されていた怪獣ムルチが蘇り、街を襲う。郷隊員はこんな結果を招いたのは彼ら自身だと思いながらも、ウルトラマンに変身し、街を救う。少年は「おじさんは死んでない、メイツ星に帰ったんだよ。だから自分もメイツ星に行くんだ」と言ってまた穴を掘り出す。そこで終わる。

 

息子がウルトラマンジャックが見たい、とせがむので、BDレコーダーに唯一残っているのは「怪獣使いと少年」しかないよ、と告げるとそれでもいいからぜひ見たいという。そして見せたら、大変に激烈な様子に、こちらが戸惑ってしまった。

最初こそ、あれがムルチだよー、と怪獣図鑑を手繰りながら話したりする余裕があったのだが、少年が穴に埋められて泥水をかけられるシーンで、あんなバカやろうどもは警察につかまるしかない!と憤り、少年が過酷な差別をうけるシーンに「なんであんなことをするの!あの人たちはみんな頭がどうかしてるよ!」と自分の頭を指差しながら興奮して怒り涙目になり、少年がとぼとぼと線路を歩くシーンでは「危ないよ!」と心配し、自警団が押し寄せるシーンでは「もう見たくない!」と顔を覆った。メイツ星人が殺されるシーンではおかしい!おかしい!悪いことしてないのに!と泣いて怒っていた。物語を見て泣く息子は初めてみた。ムルチが街を襲う時は、それを「自業自得」とする郷隊員に共感していた。それでもウルトラマンがムルチと戦うシーンではウルトラマンがんばれー!と声をあげた。見終わって、二人であれこれと話し合った。そんなことをするのも、初めてだった。

実はこの作品を見るのは二度目で、二年ぐらい前に見た時は、ひどいねーとは言いつつもわりと淡々と見終わったのだが、ただ、以後しばらく何度となく「なんで警官はメイツ星人を撃ったのか」と聞いてきた。その時の記憶は無くなってたようで、前にも見たことがあるよ、というと、覚えてないよー、と言っていた。今回、その話をするとやはり同じように「なぜ警察官はメイツ星人を撃ったのか」と聞くので、それはずっと考えていこうね、というと、「答えを教えてよー」と言いつつも、少し真面目な顔をして「そうだね」と言った。本気かどうかわからないけれど、おそらくは息子の中に何かは残ったと思う。

正直、ここまで激しい反応をするとは思っておらず、完全に想定外だったため、見せたことを後悔した。早かったかな、とか、難しかったかな、とか見せないほうがよかったかな、とか。なにかトラウマでも残りはしないか、という心配も、実はしている。

でも制作陣はこういう反応こそ望んだ、というのは言い過ぎだけど、こういうふうに子供達が考えてほしい、なにかを得てほしい、と思ってあの作品を作ったのだろう。45年の時を超えて、また新しい子供達に衝撃を与え続ける。作品は生きてるんだな、とつくづく思う。制作スタッフには45年後でも衝撃と怒りを共有する子供がいるんですよ、と言いたい。あなたたちの思いを受け止めようとする子供がここにいること、そして、そういう作品を世に送り出してくれたことにありがとう、と。

最近、息子は「命の循環」というか、そういう思想?についてしきりに話していて、誰かが死んでもその命は別の人に入ってまた生きるんだ、と思っているようだ。ママが死んでも自分の中に入って一緒に生きると。こういう年の子でもそういうふうなことを考えるんだなーと思ってはいたが、今日も寝る前に「メイツ星人のおじさんのいのちはあの男の子の中に入ってそれで一緒にメイツ星に帰ろうとしてるんだね」「あいつは自分の居場所をみつけたんじゃない?…○○くん(自分)もいつか自分の居場所が見つかるといいな」と呟いていた。

 

息子がこれから生きていこうとする社会では、今もあのような苛烈な差別が実は現存していることを、私は知っている。息子は、友達を励まして、何かできるようになると自分のことのように喜ぶような子で、今日も、あるファーストフードに寄った際に、店内に怪我をした人がいるのを見かけると、手を合わせて「あの人の怪我が良くなりますように…神様お願いします」というようなところがある。人好きで、のんきに子供らしく(というのも変な話だが)育っているけれども、何かの時に、差別に直面することがあるとは思う。その時に、息子はどんな対応をするのだろうか。もしかしたら、あの警官のように、拳銃を向ける側になっているかもしれない。

 

しかし、それでも。

 

私は、息子が「怪獣使いと少年」をみて泣いて怒るような子になってよかったなあ、と思った。

デッドプールを見た夜に

デッドプールを見に行った。 


詳細な感想はまた別の機会とするが、愛と血と肉にまみれた近年珍しいくらいのラブストーリーだった。周囲はカップルだらけだった。笑っているのは私だけだった。 

外に出ると、もはや夜だった。湿度は高いが空気が冷えているのでそこまで不快ではなかった。アジア人たちが記念撮影に励む姿を縫うように歩いた。 

新宿歌舞伎町の入り口には赤いフェラーリが駐車していて、その上にはライトを揺らすマック赤坂が立っていた。80年代のロックコンサートにおけるオーディエンスのように、ゆっくりと左右に揺れていた。傍らにはプラスチックで固めたような笑顔の警備員だか警察官だか、制服を着た男性がいた。しばらく見てると、その男性がマック赤坂に次はどこそこに行くから移動しろという指示を出していた。彼は何者なのか、なぜあんな笑顔だったのか、わからないままだった。シャツをズボンの中に入れたリュックを背負った小太りの男性が熱心に彼を撮影した。政治を面白がる季節はまだ続いているようだった。 

この街は500円のランチと10万のランチ、300円の快楽と身体と身代も溶かしきる愉楽が同居するのだった。客引きが盛んに声を掛ける姿のBGMとして「客引きは迷うあなたを教えるふりをして~」というアナウンスが流れていった。誰もが目を落とし、客引きと連れと話す人以外は全員が歩きスマホをしていた。 

駅前に差し掛かるとしゃがれた声で「AKBは皆さんご存知ですよね、指原さんがこの前二連覇しました、私は彼女とはテレビで共演したんですよ」と語りかけているのが聞こえた。ピンク色の衣装を身につけて、街宣車の上でマイクを持つ片山さつきが見えた。「私にも二連覇させてください」とまとめていた。手足が丸出しの赤い衣装を身につけた運動員がハウリングさせながら、ご静聴ありがとうございましたー!と声を張り上げた。私のそばを通りすぎた若い女性が顔を思いっきりしかめていた。壇上から降りてきた片山さつきは、道行く人に向かって、ミュージカルスターのカーテンコールばりに思いっきり手を差し伸べた。中年男性が駆け寄って握手を求めた。横目で見ながら、駅に着いた。 

金曜日でもないのに、たくさんの人がごった返す。新宿駅の日常風景だ。背の高い若い男と彼の半分ぐらいの身長の、これまた若い女の子が熱心に抱き合っている。彼の腹に顔を埋めるようにして恍惚している女の子と、彼女の背を撫でながら見えないように違う女の画像をスマホに映し出して眺める男と、それもまた、よくある光景なのだろう。 

自宅近くの駅に着く。ガード下には「自民党」と書かれた幟が立てかけられていた。明るくカラッとしたバンドの生演奏が流れていた。候補者だろうか、スーツ姿の男性が近くに陣取り、顎に手を当てて頷きながら演奏の様子を見つめている。梅雨の晴れ間の湿った夜に、何かのポピュラーソングをジャズ風に軽くアレンジした演奏は、実に口当たりがよく、駅から吐き出される人も少しほっとしたような表情を浮かべていた。これから握手会や演説が始まるのかもしれない。 

ふと、私は思った。地獄への道は、明るくからりとした演奏と、それにほぐされて笑みを漏らす人々で埋まっているのかもしれないと。こんな風に。

「レギュラーSHOW」「おかしなガムボール」……海外製作アニメにみるPC事情的あれこれ。

「レギュラーSHOWこりない二人」というアニメが抜群に面白い。
80年代に郷愁を感じる人間なら、よりたまらない作品なんじゃないか。

「レギュラーSHOWこりない二人」なまけもので公園の管理の仕事をしてる鳥のモルデカイとアライグマのリグビーが、いかにして失敗をごまかそうか、仕事をサボろうか、と悪戦苦闘する日常を描く15分アニメ。基本的なストーリー展開は、モルデカイ&リグビーの主人公コンビがなにかをやらかす(彼らの上司や仕事仲間がやらかすこともアリ)→その失敗をどうにかしてごまかそうと行動にでる→宇宙の神秘が!、と書いているとなんのことだがわからないと思うが、本当にこういう展開なので、ありのままみたままを語るとこうなります。例えばカートを壊してしまったが無料修理期間が明日までなので急いで代理店まで出かけるも、主人公コンビが途中寄り道して朝までゲーセンしてしまい、間に合わせるためにアメリカいち危険な道路(道が荒れてるとかいうレベルじゃなく、断崖絶壁やなぞの生物に襲われたりする)をいく羽目になる……といった具合。

ここに、80年代的エッセンス(ゲームが明らかにファミコンで荒いドット絵だったり、襟足ながいリーゼント短パンや、テレビはもちろんブラウン管だし、音楽はカセットテープとラジカセだろ)をぶちまけて、アクションとパロディを加え、ほろりとさせ、ときにブラックな、そして人生の苦味を感じさせる結末で〆る。
基本的にバカ男子(ゾンビ映画?もちろんサイコー!)の話なのだが、その手の話にありがちなホモソっぽい展開も特になく、ナンパして女の子の電話番号をゲットしよう!という賭けをやったときには、女はいい車を見たらよってくるだろ、というような主人公たちの思い込みは、車がよくたってあんたらの車になんか乗らないよ、という展開にしていて、PC的なひっかかりがないようにしている。いろいろありながらも結局は好きな女の子からしか電話番号は教えてもらえない、というオチにしていたり、女なんてこんなもんだろという偏見を必ず打ち砕くような話になっていて、ストレスがない。
普段はなまけててロクデナシの主人公コンビが不正や友人の危機に立ち上がり、いつもはいがみあってる公園管理仕事仲間たちが一致団結して敵に立ち向かい、勝利を収める。友情!努力!勝利!バイオレンス!アクション!パロディ!笑い!感動!が15分という短い時間の中にギューギューに詰まっているんだけど、不思議と押し込んでる感がしないのは、おそらく、スカスカの背景とヘタウマ調のイラストレーションのおかげもあると思う。エッジのたったキャラに頼らず、ストーリーでしっかり見せるというのは素晴らしい。子供は素直に笑って、親は80年代小ネタにくすぐられ、結果的にで親子で楽しめる内容になっている。私も子供に付き合ってみていたらいつの間にか爆笑させられていたクチでございます。

それにしても、こういう「PC的にオッケーなアニメ」を子供に、という流れは海外展開する際の必須となりつつあるのかな。日本だと女児向け(といいつつ大きなお友達も網羅してるような)アニメだとひっかかるところとかあったりするけど、カートゥーンネットワークで放映されている海外アニメはそういうのを感じたことが(あまりというか記憶にある限り)ない。例えば“カートゥーンネットワークトムとジェリーを超えた人気(番宣より)”を誇る「おかしなガムボール」は、『「天才バカボン」を21世紀のアメリカでアニメ化するとこうなる』というような内容で、主人公ガムボールのパパは働かず文字通り「遊んで」暮らし(父親が仕事をすると宇宙に巨大なゆがみが生じるという設定つき)、ママが働いて一家を支えている。妹は天才児で幼児だけど飛び級?してガムボールと同じ学校に通っている、なんてまさに「アメリカ版天才バカボン」だと思うんだけど(あとはペットの金魚から自力で進化して足を生やした「ダーウィン」というのもいる。)パパや近所の人やクラスメートやあるいはガムボール自身が引き起こすおかしな出来事に巻き込まれ、巻き込み、ドタバタというかスラップスティックコメディが繰り広げられる。爆発的な「はちゃめちゃさ」は「アドベンチャータイム」が教訓話に思える程だ。ガムボールとママは青い猫で、パパと妹はウサギで、自立進化したダーウィンは養子のような状況でこのあたりの家族設定もたぶんにアメリカの現在を反映しているように思えるし、PC的な考慮を感じる。今日見た話は「妹が過度にストレスを溜め込んでいると診断され解決策として『正しい家族のあり方』、父親は仕事をし母親は家の中にいてガムボールたちは清く正しい少年像を求められる」というものだった。当然のごとくそれは破綻し、最後はみんながやりたいように家の中をめちゃくちゃにして終わる。ジェンダーがいかに不自由なものかを訴えていて痛快だった。)
ガムボールのパパとママの関係は、「クズ男を養ってるバカ女ww」的にアレな保守派が草はやしそうだけど、二人とも自己を卑下しないし、お互いを責めないし、ありのままで仲良く暮らしている。(パパが仕事して宇宙がおかしくなりそうなとき、賛成する子供たちに対してママは全力で止めにかかっているくらい)関係も対等だし、男だ女だ式にジェンダーを喧伝しないアニメがアメリカでは主流 となりつつあるのだろうか。

これが日本だと「はなかっぱ」なんかは見ていて時々ひっかかるところがある。それこそ「家でご飯作って待っていてくれるおかあさん、男としてのあり方を教えてくれるおじいさん」みたいなジェンダー観が垣間見えてしまうんだよなあ。こう書くと「家でおかあさんがご飯作って待っていてくれるのは当たり前だろ、感謝して何が悪い」みたいなご意見をいただくかもしれませんが、そーいうのをアプリオリに捉えるのがどうなのよ?って話なので、あしからずごりょうしょうください。

ちなみにカートゥーンネットワークで一番イカレてるのは(今まで見た中で断言するならば)圧倒的に「おはよー!アンクルグランパ」だと思う。ビートルズの映画「イエロー・サブマリン」を連想させるような色使いとサイケデリックさで、見ていて不安になるレベル。なんかキメてみるアニメだよなあと思いつつも、幼児って基本的になんかがキマってないとできないことばっかりやってるので、ちょうどいいのかもしんない。

銀バス哀歌

私はバスに乗っていた。

車内は閑散としている。前の座席におばあがふたり、なにかを話し込んでいた。窓の外にはサトウキビ畑がひろがっている。時折ゆれる。心地よさにまどろんでいた。

日差しは高い。うっすらときいている程度のクーラーでも十分ありがたいほどの気温で、ひっきりなしに汗が染み出す。(でも不快じゃない)道を歩く人もいない。こんなときはどこへもいかずに、家で涼むに、限る。真上から垂直に日が照る。ほとんど理不尽な暴力に近い。車体がきしむ。おばあはまだしきりに話し続けている。でもよく聞こえない。サトウキビが風に揺れている。地平線の向こうに白い雲。青い空。おあつらえむき過ぎてわびしい。

うつらうつらしていると、母の作った色の濃いうまくないカレーやら海に向かってかけていく背中だとか脈絡なく浮かんできた。やわらかい皮膚の感触やそのあたたかさ、静かな顔立ちも。いくから、と私がいって、目で合図した。それが最後だった。なにか重要なことを聞き忘れた気がする。もう少し話しておけばよかった。それだけが気がかりだ。いいたいことがあったような。

クラクションが鳴らされて目が覚めた。バス停のところにおじいが立っている。運転手は手を振っておじいを追い払った。バスは走り去る。バス停に立ち尽くしたまま白く濁った目でこちらをみていた。私は彼を見つめた。土ぼこりに目を落としたままの彼の姿を。

水牛車に乗って海を渡った。あの御者のおじいの目を思い出す。白く濁りかけた目で三線をひき、安里屋ユンタを歌っていた。彼はいない。私だけが乗っていた。安里屋クヤマ。悲劇の女。殉じた女。目差主や我ば否よあたり親やくりや嫌よ。逃げて逃げて草臥れた体から木が生えて役人はそれで船を作り島に渡るのだ。その話を彼にすると「結局クヤマは役人のものになったんだね」とつぶやいた。

いつだって割と簡単に夢中になる。そうしようと思えば、そうなるからだ。ふりでしかないからすぐに飽きる。(どちらかが)だから彼が私の上に体を傾けて「あいしている」と笑ったときも、その延長だろうと思っていた。それにしては、月日が長かったけれど。「自信がない」と彼は言った。誰も責めることなど、できないのだ。きっと。

気がついたときには、もうおばあたちはいなかった。二人がいた座席の上には蟹がゆっくりと這っていた。目を放した隙にどこかにいってわからなくなってしまって。運転手に終点がどこか聞かなかったことを思い出す。バスは走り続ける。私は背もたれに体を預けてもう少し眠ることにした。日はまだ高い。

ザ・サスペンス「消えたスクールバス」

真面目な話の後で恐縮だが、ザ・サスペンス「消えたスクールバス」である。

大映ドラマがその持てるポテンシャルを全て投入したと思しきTBS放映の二時間ドラマ、それがザ・サスペンスである。内容は、後味の悪さ、演技のねちっこさ、ストーリー展開の奇妙さ……と、どの作品も大映ドラマエッセンスを煮詰めたような塩梅で、みている人間にたまらない居心地の悪さを提供してくれる。

TBSのCS放送で現在時折放映しているのだが、見る前にどんな話なのか検索をかけてもあまりひっかからない。何作かが「後味の悪い話まとめサイト」にあった気がする。そのため備忘録的に気になった作品をネタバレ全開で書いていきたい。

ということで「消えたスクールバス」です。1982年、榊原郁恵初主演作品。初主演でこれっていうのもなかなかハードル高いというか、烙印というか…。どういう話かというと…。

【ストーリー】
幼稚園のスクールバスが乗っ取られ、運転手と10人の園児が誘拐された。犯人は園児ひとりに対して一千万円の身代金を要求してきた。この卑劣な犯行を警察に通報すべきだと主張する保母の里江子(榊原郁恵)は、父兄たちに吊し上げられ、あげくのはてに園内の物置に軟禁されてしまう。父兄たちは、犯人が金の引き渡しを指定した翌朝11時までに、それぞれ一千万円を工面することを決め、走りまわる。里江子はやっとの思いで恋人の田代刑事(赤塚真人)に事件を通報し、警察が園に乗り込んできた。余計なことをしたと父兄にののしられる里江子だが、警察の介入を知った犯人はやがて運転手を殺害する…。(公式サイトより引用)

www.tbs.co.jp

 

 

この手の誘拐モノ、例えば特捜最前線なら「犯人の出自背景、そしてなぜ東京に流れ着いてこんな犯罪に手を染めたのか」をじっくりがっつり描き出して、ストーリー上どっちかというとそっちがメインになってしまう(そして社会の無情さ、酷薄さが浮き彫りになる)と思うし、西部警察だったら犯人との交渉、そして団長渡哲也の無断で勝手に園児と交換で人質となった舘ひろしと犯人とのやりとり(たぶん舘は半死半生の状態で「あんたも…こんな状態でどうすんだよ…」などと玉の汗をかきながら犯人の気持ちを解きほぐす)焦れて強行突入を急ぐ他の警察を制止して「あいつを待ちましょう」と告げる団長、なんだかんだで犯人無事確保、タンカにのせられて救急車に運ばれる舘に団長がよくやったとばかりに頷く…というような流れになると思うのだけれども、そこは大映ドラマなので、話の三分の一ぐらい「身代金をめぐる父母らの醜く切実な姿」を描くことに費やす。ここがもう、後味悪くてたまらない。

身代金を用意するために、園児一人当たりの金額を算出する。その割り当て分を必ず調達しなきゃならないため、それぞれの親が駆けずり回る。で、まあフツーに金満家の祖父が「金ならいくらでもやる!その代わり無事に⚪︎⚪︎を取り返すんだ!できなかった時はわかってるな!」と父親に小切手ぶん投げる(っつっても、父親もそんなこと言われても困るよなあ)ところとかもあるんだけど、例えばある母親は別れた夫のところにいき、割り当て分を出してくれるように頼む。が、前夫にはすでに家庭があり「そんな大金を今の妻に知られずに出すことはできない」と断る。すると母親は「私はね…子供を守るためになら鬼になります。あなたの新しい奥さんにあなたのこと全部話す!」と脅かして金をせしめる。この前夫の話はこれ以降特に出てこないので、脅されるような「こと」がなにかは視聴者にはわからない。ただこの醜いドロドロとした必死さだけを突きつけられる。

またある夫婦は町工場で働いていて工場主に借金を申し込むのだけど、零細極まりない町工場なので断られてしまう。そのまますごすごと幼稚園に向かうと他の園児の親からつるし上げを食らう。「あんたのせいでうちの子が死ぬことになる!金を用意できないお前は人殺し!」ぐらいいうんですよ。で、そういう押し合いへし合いしてギャーギャー騒ぎまくってもみくちゃの状況で(父母の一人は八百屋の帽子を終始着用したままだったりする。いやそりゃ大変状況なのはわかるけど帽子ぐらい…)、警察に通報しようとした榊原郁恵は、逆上した親たちにとっ捕まって物置に拉致監禁される。郁恵は、スクールバスに乗らなかったことによって一人難を逃れた園児に、恋人の刑事へ連絡を取ってもらうよう頼むのだが、園児は母親とともに自宅に帰る。だがなんとか抜け出してパジャマ姿で彷徨しているとおまわりさんに見つかり、なんとか恋人の刑事と連絡を取ることに成功する…んだけど、その母親と自宅に戻るシーンがまたアレで、母親は彼氏?とイチャコラしたいために園児のいうことを一切聞こうとせず、叩いたりして早く寝かそうとする。なんでここでもクズ描写を…。このドラマは隙があるとこの手のクズ描写をねじ込んでくるので、まったく気を許せない。

恋人の刑事は上司のおやっさん(こと小林昭二)に報告、そしておやっさんはさらに上に話をあげて、対策本部を作り、幼稚園に乗り込む。警察に知らせたら子供を殺すと犯人から電話を受けていた親たちは騒然とするが、そこへさっそうと乗り込む神山繁神山繁が登場したらもうサクッと事件は解決すると思うじゃないですか!ところが、このドラマにおける神山繁は無能の極みなので、盗聴を仕掛けたら犯人に丸わかりで馬鹿にされ、現金の受け渡しと見せかけた警察の網は徒労に終わり、追跡した犯人には一人捕まえるも結果的にはまかれ、事態はひたすらに悪化し、抜け駆けして犯人と取引をする親(角野卓三が小市民的悪人を好演)が出てきたりして、さらなる泥沼へと転がり落ちる。しかしこんな無能な神山繁は初めて見ましたわ。怜悧な役を演じたら右に出る者がいない人なのに、そんなのかけらも発揮されないままでした。

そのあと犯人グループの一人が捕まったり、郁恵が犯人側に拉致られて園児とともに人質になったりするのだけど、恋人の刑事がよりによって取調室で犯人グループの一人に発砲し、居場所をはかなきゃ殺してやると脅しをかけることでなんとか割り出し、あわや郁恵もろとも全員殺されかけてるところをなんとか救いだすも、最後は恋人の刑事がお縄になって、郁恵が「私は待ってるわ〜」とかパトカーのテールランプに呼びかけるか何かしてスタッフロール。なんだこれ!それでいいのか!と唖然としたままぶった切られる。すげーなあおい。

結局犯人は角野卓三で、その理由も「実は(誘拐した子供は)自分の子ではなく、妻が他の男と浮気してできた子供だった。憎い子供を殺してついでに金をせしめて高飛びして別の所で新しい家族つくってやり直すためにこの計画を思いついた」という、はた迷惑きわまりないものだった。理由もクズけりゃ、結末も後味が悪く、当時お茶の間でこんなドラマを消化できていた昭和の人々の胆力と胃腸の丈夫さに驚きつつ、これぐらいの破壊力のある2時間ドラマ、もう一度みたいなーと思ったりもしつつ、いやーすごいドラマです。

これ、事件解決したあと幼稚園内の人間関係が完膚なきまでに破壊されてしまってるので、全員幼稚園やめるしかないよなあ…。園児たちの命が助かったのはいいけど、あんな解決の仕方で、しこりどころの話じゃないわけで。この他、不注意で園児を死なせてしまった幼稚園教諭と死んだ園児の父親とのラブロマンス()が展開されたりもするんだけど、こんな重い話すら、物語が進むにつれて重力加速度が増すこのドラマ内では、清涼感ある刺身のつまの箸休め的なニュアンスもあるぐらいで、まあとにかく胃もたれどころかしばらく精進料理で過ごしたくなるようなドラマですが、興味ある方は、ぜひ。

沖縄戦における、ある体験談について

私の友人に沖縄在住者がいる。来訪した際に幾度かそのご家族から沖縄戦にまつわる話を聞いた。それを文章化したものを以前にもWebにて発表したことがあり、先日その内容をざっとTwitterに書いたら、意外にも多くの方がRTしてくださったようなので、再度こちらにも掲載したい。この話を私にしてくださった友人ご尊父*1には心からお礼を申し上げる。

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(友人から)聞いたと思うけど、ボクの姉がね、ひめゆり部隊にはいったんです。参加するちょっと前に近所に住んでいた人がせっかくだからと家族写真を撮ってくれてね。それが唯一の皆がそろった写真となってしまった。不思議なことにね、姉はユタ*2にね、姓名判断してもらったときに、10代で水難の相がある、といわれたよ。残念なことにその通りになってしまった。*3母はずいぶん悲しんでね、慰霊碑には一字多く彫ってもらってあるんだよ。

今日、平和の礎にいったの?あそこに多分姉の名前もあると思う。(姉のことは)もうずいぶん記憶から薄れてしまったけれど。

あのとき…沖縄に米兵が上陸したとき、ボクらは、北へ、山へ逃げたんだよ。父が女学校の校長をしていたから、それでツテのある先生のところへいこうと叔父からなにからみんなで逃げた。隣近所の人も、その頃になったらもうみんな逃げてたけど。

昼間は米兵が活動するから、夜逃げてね。山道の、荒れた道で、右手は崖のようになっていて、崖下は川だったと思う。父がいった「土手を左手で触りながら歩け」というその言葉を守ってね。父はその辺りをよく行き来していたそうだよ。だからある程度はどんな道かわかっていたみたいで、ボクらは父の先導の元なるべく急いで逃げた。雨が降ったりしてぬかるんでいて細い道。ずいぶん歩きにくかったよ。ボクは父の靴だけみて歩いた。我々を追い抜いていった夫婦が、カーブしている道をそのまま突っ切ってしまい、女の人が――赤ちゃんを抱えていたなあ――あっという間に足を踏み外して落ちたんだよ。立ち止まって「オーイ」と声をかけたら「大丈夫だよー」と返ってきたんで旦那さんだけ残して先を急いだ。でも気持ちとは別に足はすすまない。暗くて怖いし道は悪いし。

時折、米軍の照明弾が炸裂して、ものすごく明るくなる。そのときはソレッと駆け出す。それでずいぶん距離を稼いでね。後はじりじりとすすんだ。昼間は集落が捨てた壕の中や、ガマっていう洞窟みたいなところで隠れて休んでいた。ある日いつものように壕で休んでいたら、叔父が真っ青な顔して駆け込んできた。「アメリカーが来(ち)ょーん」*4といって。当時叔父は警察官をしていてね。それなのにおかしなぐらいぶるぶる震えて、どうにもならないくらいだった。続けて父がはいってきた。同じく音がするんじゃないかっていうぐらいぶるぶると震えていたよ。食料を探していたら、パンパンと銃を撃つ音がして、がさがさと英語らしき話し声が聞こえたそうだ。叔父は機転が利くからわざと全然別な方向へ石を投げて、米兵の話し声が聞こえなくなってから、ゆっくりと歩いてもどってきたそうだ。そんな近くまでもう米兵はきていたんだね。あんな二人の姿、後にも先にも見たことがなかった。しばらくしたら銃撃がはじまった。それが日本兵と米兵の戦闘なのか、米兵が捜索のためにわざと銃を撃っているのか、それはわからない。激しい銃声だった。壕の入り口は木の枝かなんかでカモフラージュしていたけど、硝煙が壕の中に充満してきて咳をおさえるのに必死だった。音を立てたら見つかるかもしれないからね。この壕にはボクたちの他、家族に取り残されたおじい*5がいたけれども、このおじいさんは耳が凄く遠くて、突然大声を発することがあった。だからボクはこのときおじいさんの口をふさぐ役をしていた。「おじいさん声を出さないでください」と。やっと米兵が引き上げてようやく静かになり。日が暮れるのを待ってボクらは壕をでて山奥に向かった。そのおじいさんがどうなったか、わからない。

避難地まで逃げる途中に、おかしな兵隊さんに会ったなあ。上半身は裸で、帽子だけして、手製のヤリみたいなのを肩に担いで、そこに上着なんかをぶら下げて歩いていた。沖縄出身だと言ってその人は歩きながら、「このヤリで米兵を5人殺した」って話してたよ。「二人は池の中で、短刀で刺して殺した。後の3人はヤリで殺した」短刀ももっていて、服も濡れていて、ホントみたいだったけど、でもちょっと話が出来すぎているので怪しいなと思った。米兵をやっつけた証拠があるから、それを見せて、この大東亜戦争が勝利した暁には、ゼッタイに偉くなるんだ、っていってたなあ。その人は一生懸命父に「自分が生まれた村はまだ安全だから一緒について来い」っていったけど、なんだかアヤシイからね。父は断って知り合いの先生のいる避難地にいったよ。あの人はどうしたかね。

ようやく知り合いの先生のいる村についた。山奥でね。先生は山の中のくぼ地に、壕――掘っ立て小屋みたいなのを作ってくれてね。ボクら――家族親類縁者含めて13人ほどだったかねえ――はそこで暮らすことにした。食料はないけど、比較的落ち着いて過ごすことが出来た。でも腹は減ってねえ。ほらあそこにある大きな葉っぱわかりますか?(とご尊父は庭にあるハート型をした葉を指差した。かなり大きい。)あれね“食わず芋”っていって芋ができるんだけど食べられないのですよ。いまはああして見事な葉ができるものだから、観賞用として庭に植える人が多いけどもね。もう腹が減って仕方なかったボクは、食わず芋っていうけど、ひょっとしたら食べられるんじゃないかって掘って食べたけども…あれは蒸したかなんかしたかねえ、一口食べたらもう吐いてしまって大変だった。私の母がね、その村でいちばんの年寄りにね、どうしたらいいですかって聞いたらね、黒糖と豚の脂を混ぜて丸薬みたいにして飲ませろ、とこういったよ。どういう作用かその辺がボクにはよくわからないのだけども、飲んだらね、不思議とよく効いたねえ。

そのお世話になった先生は動物を飼っていてね。馬とかヤギとか。あるとき、日本兵が村に来て、馬をだせ、と、こういうんだ。現地徴用すると。仕方ないから渡してね。馬を連れて日本兵が去ったあと、銃声がしたよ。恐らくは馬をつぶして食べたんだろうねえ。その先生は、もうこうなったら自分たちで食べてしまおうと、残った山羊をつぶしてボクたちにもってきてくれた。ところがこれが困った。ボクのウチはご先祖からの言い伝えで、山羊を食べてはいけないといわれていたんだね。なんでもご先祖様は山羊に助けられたことがあるから、その恩返しに、とそういう誓約をしたらしいんだけれど。*6家族で悩んでね。食べなきゃ死んでしまう。でも食べたらご先祖様に背く。そしたらね、父がうまいことをいったんだよ。「確かにご先祖様は山羊に助けられた。でもいまだってそうだ。これを食べることでわしらは助かるんだ」と。上手い言い訳といったらあれだけれども、ともかくそれをボクらは食べて、助かった。

集落の回りを米兵たちが囲んでいるのだろうということはわかっていた。投降する人びとも増えてきた。時々食料を交換した村の人びとの中で戦局に詳しい人がいて、どうみてもダメだろうといっていたそうだよ。でも非国民と呼ばれることをおそれて父たちはどうしても簡単には投降できなかった。その頃になると米兵とも交流があってね。食料をねだったり、彼らが捨てるために埋めたモノをまた掘り返したりして食料を賄ったりしてた。ボクもよく掘り返してねえ。でも掘り返したら米兵達が用を足した後だったりしたことも幾度もあったよ。ただもうそのうち食料はどうしても底をついてきた。父たちは話し合って、余力があるうちに投降しようと。でもこれは本当に恐ろしいことだった。もし日本が勝ったらボクたちは大変な反逆者になってしまう。今の自分たちがどのような状況におかれようとも、なにしろ日本が負けるわけがないと思っていたからね。必ず本土から応援が来て戦局が好転するに違いないと信じていた。でも幾晩も話しあって、このままじゃみんな死んでしまうからどうせ死ぬなら米兵のところにいって死のう、ということになって、付近で同じように隠れている住民と一緒にみんなで、村長さんが白旗を掲げて、山を降りたんだ。たしか7月の…初旬頃だったと思う。

空が青かった。本当に、青かったよ。

*1:ちなみにご母堂からは対馬丸疎開する予定だったが土壇場で乗らないことになったら…という話を伺った

*2:沖縄特有の女性霊媒師占い師

*3:ひめゆり平和祈念資料館の記録を読むと、避難中摩文仁の海岸付近にて波にのまれてしまったらしい

*4:沖縄方言で「アメリカがきている」という意

*5:沖縄方言で「おじいさん」という意

*6:沖縄は先祖崇拝が非常に強い土地柄である